唐九郎伝:「唐九郎風雲録」①

風媒社創業者、故稲垣喜代志氏による唐九郎伝「唐九郎風雲録」の連載を始めます。

今回のタイトルは、「資本論、同人誌、オーケストラ」です。

資本論、同人誌、オーケストラ

唐九郎は明治三〇年(一八九七、戸籍上は明治三一年)、瀬戸市水野町の半陶半農の家に生まれ、四 三年(一九一〇)、瀬戸市立第一小学校を卒業。その後、南画と漢籍を習いに中根聞天塾に通い、め きめき腕を上げて師範代として後輩たちを指導した。この塾での勉強がのちに中国の辞書や古文書 などを読んだり、陶磁器関係の資料の解読、『陶器大辞典』の編纂の折りに大いに役立った。この 塾に通っていた頃から彼は通信講座で数学や簿記や英語を学んだ。高等工業や美術学校に学んだ、 河井寛次郎、濱田庄司、富本憲吉とは環境は全く違い、すべて独学であったと言っていい。
幼児の頃から窯場に入り込んで遊んでいた唐九郎は、土いじりは馴れたもので、小学校を出る頃 にはろくろも見事にひけて、 一人前の仕事ができるようになっていた。家の周辺には古い窯跡がたくさんあり、子どもの頃から陶片を集めては宝物のように眺めたりして育った。その古陶の持つ魅 力がやがて彼を古陶磁研究へと向かわせ、古窯発掘・調査、古陶復元へと駆り立てることになる。
唐九郎は早咲きだった。大正三年(一九一四)七月、 一六歳の時に父の丸窯の権利を譲り受けて 独立した。当時、瀬戸は陶都として栄え、不景気知らずだった。しかし、「名人職人に!」と願う 祖母の期待を一心に担った彼は無難な駄物には手を染めず、新しいものにこだわったり、名人気質 があだとなり、見事、経営に失敗、大正五年(一九一六)には倒産というはめになった。その後、 実業家をも志したが、うまくはいかなかった。
青年期の人間形成に大きな影響を与えたのが、宣教師・井上藤蔵(瀬戸町永泉教会)と柿沼広澄 (日蓮正宗瀬戸説教所)の二人である。大正六年(一九一七)に出会った井上は安部磯雄系のキリスト 教社会主義者で、彼からは自由平等思想を学び、街頭で伝道活動に携わったこともあった。昭和六 年(一九二一)に会った柿沼広澄はまだ学僧で唐九郎より年下であったが、親しくつき合ううちに、 『資本論解説』などをすすめられ、唯物史観的思考が身につき、のちに陶磁史研究上役に立ったと いう。幾星霜を経て、昭和三八年(一九六三)五月に大石寺総監となった柿沼からの依頼で、同寺 大客殿正面の大陶壁(縦三メートル×横一二メートル)を加山又造と共同で制作した。
多感な青年時代には彼もひとかどの文学青年であった。夏目漱石、森鴎外、田山花袋、徳富蘆花 やトルストイ、ツルゲーネフなど、内外の小説を読んだり、友人たちと同人誌『靫』』を発行し、 「霞」というペンネームで小説や詩や俳句や短歌も発表したりした。

日一日を君のみすがたゑがきつゝ慕へる我を君知りますや
あへなくばさびしとぞ思ふ吾が心あふてその後のなほも寂しき
栃の葉の散ることほひは何となく君をにくめる心湧きくる
春の夜を髪に木の葉のピン挿してかはゆき君は我とあゆめり

唐九郎、大正一二、三年(一九二三、四)頃の作品である。
愛知県にピアノが二台しかなかった頃で、そのうちの一台が瀬戸にあった。瀬戸は豊橋、岡崎、 一宮などとともに瀬戸物景気で栄えていたのだ。彼は仲間と相談、オーケストラをつくり、自分は ヴァイオリンを弾いた。「あんな西洋のもんにかぶれよって」という批判があると、さっそく琴の 師匠の所に相談に行き、琴や尺八との和洋合奏の会を結成、幾度か演奏会を開き瀬戸の人々をあっ と驚かせた。それだけではない。唐九郎は尺八や端唄や三味線、踊りも習い、舞台で踊ることさえ あった。

続く

出典:稲垣喜代志著「唐九郎風録 」