ゆかりの地を訪ねて:「平戸橋」① ー唐九郎の終戦の日ー

 1935年(昭和10年)瀬戸を離れ守山町(現名古屋市守山区)翠松園へ移窯した唐九郎は、生涯そこで作陶活動に励みました。唯一の例外は猿投村(現豊田市)越戸平戸橋で過ごした1943年から49年までの6年です。唐九郎は平戸橋の土と自然がいたく気に入ったようで、ここで精力的に唐津や瀬戸黒に取り組んでいます。その窯跡は今でも住宅街の中に記念碑とともにひっそりと残っています。
唐九郎は終戦の日を平戸橋で迎えたのですが、その日の思い出を『かまぐれ往来』(新潮社)で次のように記しています。
74回目を迎える終戦の日を前に、唐九郎のその日の思い出をここに掲載します。

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当時ぼくの泊っていた安城館には、伊保原(現豊田市)にあった航空隊の将校も泊っていた。
天皇陛下の詔勅のあった日のことである。夕方将校たち三人ばかりが部屋にいたので、「とうとう日本も敗けましたなあ」とぼくが声を掛けたら、中の一人が、血相を変えて、「貴様何を言うか!一天万乗の大君を戴いとる我国が米英なんぞに敗けるもんか!」と怒鳴った。
「それでも、昼の玉音放送で、天皇陛下が……」と言いかかると
「まだそんなことを言うか、そういう非国民は殺してやる!」
と傍らに置いてあった軍刀を抜いてぼくの胸を突いて来た。ぼくが手をあげてよけたので剣の先が左腕に突き通った。
他の将校はかかってはこなかったが、止めてくれる様子もない。後で思うと彼らはみんな放心状態だったに違いない。ぼくは腕の力は強いので、相手の刀をもぎ離した。その将校は、「殺し損なった! 殺し損なった!」とわめいていたが、後はもう取り合わず血のたらたら流れるのを手拭で巻いて部屋へ戻った。

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安城館の人たちは血だらけのぼくの姿を見て驚いたが、その頃は近くに医者もいないし、ロクな 薬もなかった。ここの使用人に元芸者をやっていた女性がいて、彼女はいろいろな民間療法を知 っていたが、その時も、傷口に梅干を貼っておくといいといって、その突き傷の手当をしてくれ た。お陰でほとんど痕も残らないように癒った。
その時の将校は確か九州の人間だったが、それから半年ぐらい経ってから故郷の産物などを持 って、平戸橋までぼくを訪ねて謝りに来た。まだ交通事情の悪い時によく来たものだと思う。
「あの時君たちは気がおかしくなっていたから、ぼくは問題にしなかったよ」 と言ったら、「ほんとにそうです。もう今考えても自分というものが分らないくらい、混乱していました。日 本は敗ける筈がないと信じていたのに天皇自ら、無条件降伏を承認されたというのですから」とその時はしょんぼりしていた。
確かに軍の一部の人間にはこの戦争の行き先が見えていたのかも知れないが、大部分の軍人も 国民も勝つことを信じて、命を投出して戦っていたのだ。
前年の十二月十八日四男の四郎が学徒動員中爆死し、終戦の寸前の七月十四日二男の裕が中国 で、七月二十一日弟の武一がビルマで戦死した。

出典:『かまぐれ往来』(新潮社)