「やきもの一問一答」:第一回「やきもの」とは何か

◎やきものと一口にいってもいろいろありますけど、どう分類できるのでしょうか?

″やきもの″といっとるのは、土または石を焼いて固めたものである。大ざっぱにいえば、土を焼いて固めたものを 陶器といい、石を焼いて固めたものを磁器といっている。陶器はたたくと木琴のような音がする。磁器は金属性の 音がする。陶器は火に入れたあといかなる場合にも不透明だが、磁器は半透明体―ガラスのような透明ではないが ―で、明るいほうを向いて自分の手を向こうへやれば、その手が透けてみえる。

◎備前とか信楽、常滑などは何になりますか?

広義にいえば、磁器以外のものをすべて陶器といっておる。狭義では陶器とは吸水性のある素地に釉薬をほどこし て強く焼くやきものをいい、吸水性のある素地のまま無釉にて低火度で焼いたものを土器といい、不吸水性の素地の ものを釉薬をかけずに陶器と同じ程度まで強く焼いたものを炻(せつ)器という。
間違えてはいけないのは、中国では陶器といえばやきもの全体をさしている。 つまり中国語でいうと陶とは窯のこ とで、陶器とは窯で焼いた器という意味なんだよ。その中で釉をかけたものを ″ 瓷(じ)器″と呼んでいる。

◎陶器のことを通称して瀬戸ものというのはなぜですか?

″せと″というのは、″すえ(須恵)ところ(所)″が″すえと″になって″せと″になったんだと思う。須恵という のはやきもののことじゃ。瀬戸という地名はむしろあとからできたもので、それがいつの間にかやきものの本場とい
うことになってしまった。それから唐津でもやきものが始まって、陶器をさして東の方では瀬戸もの、西の方では唐 津ものというようになった。この瀬戸ものと唐津ものとが、日本の陶器の主体じゃ。

◎瀬戸ものと唐津ものの違いはどこですか?

瀬戸ものはそもそも中国の焼き方が基礎となっておる。奈良朝から始まり、平安朝などさかんにやっておる。手っ とり早くいえば朝廷の御用窯だった室町初期にはもう瀬戸ものという名称がある。
唐津ものは元々が朝鮮のやきもので、室町中期に朝鮮から九州へ渡り、その後、秀吉が朝鮮戦争の捕虜を連れてき てやったものが基礎を成している。

◎具体的に瀬戸ものと唐津ものの違いは?

やり方が違う。朝鮮系の唐津は蹴轆轤(けろくろ)を使い、瀬戸の場合は手轆轤 なんだ。足で蹴って回す轆轤 は速く回らないか ら、唐津ものは不完全でごてごてしていてそこがまた面白い。瀬戸は手で回すから、几帳面なものができるね。
それに窯も違う。唐津ものは朝鮮式の登窯であり、瀬戸ものは大窯(古い窯の意)と称する窖(あな)窯である。

◎ 中国から陶工が来たのですか?

当時はテレビがあるわけじゃなし、手紙が往復できるわけじゃなし、人間が来なければ文化も来ない。おそらく中 国から人間が来とると思う。僕が中国へ行ったとき、こわれた古い建物などをみると、大工と左官は日本から行っと るからね。特に河南地方では棟札に日本人大工の名が書いてあったりする。パスポートがいるわけじゃなし、戸籍謄 本がいるわけじゃなし、行きたい時に行けたし、むこうもそうなんだよ。昔の文化交流というのは人間の交流なんだ。

◎中国のやきものの技術がうかがわれる最も古い例は?

愛知県は三河と尾張の境に猿投山という山岳地帯がある。ここに猿投山西南麓古窯と名づけたたくさんの窯址があっ て、僕も発掘にたずさわった。なんと猿投の古いものは奈良朝につながるからね。猿投で焼いたものは中国の越州窯 のものと寸法も文様も形もそっくり同じ。越州窯とは上海よりも南の、 つまり越の国で焼いたものであるけれども、 ちょうど五十年遅れで人間によって日本へ伝えられたとしか考えられないね。

◎六古窯とは何ですか?

まあ、かつては瀬戸をはじめ、常滑、備前、丹波、信楽、越前の古窯址をさして六古窯といっておった。鎌倉、室町期の古い窯があるところではあるけれども、六古窯をやかましくいっているうちにそれよりも古い窯址がどんどんで てきた。

◎日本の代表的古窯を選ぶとしたらどこですか?

それは陶邑(すえむら)古窯、猿投古窯と渥美古窯を入れなくてはいけない。河内・和泉にまたがる陶邑古窯址群は、成立年代 が我が国で最も古く、奈良朝以前の最大の古窯だ。その名称は『日本書紀』の「茅渟県の陶邑」(ちぬのあがたのすえのむら) の地名に基づいている。渥美半島から出てきた渥美古窯は瀬戸よりも古く平安朝に始まる。それも平安朝に黄瀬戸をやっておるんですか ら驚いてしまう。それはすばらしい黄瀬戸で、瀬戸のものとしては立場がないがしょうがないわ。
それから先ほどの猿投古窯はもう一つ古いが、平安朝の末期には滅びてしまう。朝廷の御用窯だったもので、朝廷 が勢いを失ったときにだめになった。この猿投の系統で民窯として南に伝わったのが常滑になり、北にきたのが瀬戸 になる。鎌倉時代以後のことだ。

◎発掘したもののどこで古いとわかるのですか?

例えば渥美古窯からでた大きな壺、それは骨を入れたものだが、そこに平安朝の年代と人間の名が入っている。それで同じようなものかどうかで見当がつくんだよ。陶器に年号がなくても一緒にでてきた土器などの年号からしぼっていくことも可能だ。

◎各古窯の違いは何ですか? 技術ですか、形ですか?

時代が同じならたいてい同じだね。職人は昔になるほど 渡り職人で、同じ人間が行き来しとる。寒い時には暖かい ほうへ行くし、暑ければ涼しい所へと、渡り鳥のように、 越前に行っとる奴が常滑や岡山でやっとるわね。

◎では何が違うのですか?

土が違う。土の重さが違う。越前のものは重い。だから 同じ職人が作ってもドンと太いものになり、土が軽ければ 薄くできるもんで別人が作ったようにみえる。
場所が違うということは、土が違うだけなんだ。時代が 同じだと、九州と瀬戸とこれだけ所が離れていても、同じ ようなものを焼いているからね。

◎これが日本のやきものといえるものができたのはいつご ろからですか?

日本のやきものは、桃山時代に非常に発展した。つまり お茶、茶道との関係が強い。平安から鎌倉にかけて、喫茶 が流行し、そしてまた鎌倉時代には禅宗僧侶の茶礼という 儀式が行われたけれども、そこでの茶碗は天目茶碗など唐 物が珍重されていた。珍重はされていたが、この場合は美 よりも用が先行していた。その後、千利休によって、茶は 茶道になった。利休の茶は、あれは修道の為の茶道なので、 精神的なものを尊ぶ。そうした侘び、寂びの境地にかなう ものとして渋みのある高麗茶碗などを喜んでいた。
ところが桃山に入って茶道は一変する。古田織部が登場する。織部は利休の「侘び茶」を受けつぎなからも、眼の 茶人であった。非常に芸術的になるんじゃ。利体は色や形 の変化のあるもの、絵のあるものを好まなかった。織部は その反対じゃ。派手やかになって近代的になった。織部に
なって初めて、日本的陶器が生れてきたんだ。
一つはそのころ、南蛮文化が入ってきたことも影響して いる。日本人はああいうものに敏感なんだ。渡来のガラス 器を真似たり、釉薬に酸化銅など色ガラスに使うのと同じ ものを使っている。織部の緑だよ。いつかフランスでスラ イドをみせていたら、「これは何というやきものか」と聞く から「織部だよ」といったら、「いやオリーヴだろう」といっ た。もしかするとオリーヴだから「オリベ」と名乗ったの かもしれん。

◎各地の窯に個性がでてくるのもこのころですか?

いや、そう簡単にいかない。徳川幕府が幕藩体制をしく と、文化的なものが一時期全くだめになる。だめになった ところで、八代将軍吉宗の享保の政策で、各大名に藩の産 物を作らせた。その時、各藩が窯をうって競争した。それがお国焼なんだ。大正のはじめにはほとんどすたれてしま ったが。というのは、第一次大戦の頃、大資本が名古屋を中心とする愛知・岐阜・三重の一帯で急速な機械化を進めて大量生産を始めたので、ほかの窯はたちうちできなくなってしまったんだ。もともとここら一帯は原料も豊富だか らね。

出典: 唐九郎著『唐九郎のやきもの教室』(新潮社)

次回は「磁器の こと」。お楽しみに。