唐九郎伝:唐九郎風雲録②

「氷柱」と古窯調査


古窯跡の発掘から古陶磁の研究へと、唐九郎はどんどん奥へ奥へと進んで行った。二四歳の時の 小野賢一郎との出会いは、彼にとってある種運命的とも言える出来事であった。小野は大阪毎日新聞記者を経て東京日々新聞社会部長兼事業部長、日本放送協会文芸部長を歴任、当時は陶磁研 究家としてやきもの趣味の普及に心を砕いていた。以後、小野が主催する『茶わん』誌や中央の専 門誌紙にしばしば寄稿することになった。

唐九郎


昭和初期の経済恐慌の際には十五銀行が倒産したため、そのあおりを受けて旧華族や財閥が破産 寸前に追い込まれ、それまで蔵の奥深くにしまわれていた茶道具など名品が、ぞくぞくと各地の美 術倶楽部で売り立てに出された。人々は初めて名品を手にして、茶道というものが改めて見直され ることになった。それまでは、作家自身が本歌がいかなるものであるかを知らないでいることが多 かった。
唐九郎はこの機を逃してはならぬと、伝手を頼り、「陶磁研究家」という肩書きで、売り立てが あるたびに大阪・京都・金沢・東京の会場へと東奔西走し、名品を目のあたりに見ることができた。
これが桃山陶への開眼へとつながっていく。
各地の芸術倶楽部を巡る旅費をつくり出すのにも苦労した。知多半島の中心にある半田などに行 くと、街の骨董店に中国の明時代の赤絵の大皿が積んであったことがあり、それらをごっそり仕入 れ、東京に行く時は一、二枚ずつ持っていき売ると、いい値段で売れた。それでずいぶん助けられ たという。
「たぶん、知多半島の有力な商人たちは千石船を持っていて、中国上陸にまで渡って、あるいは どこかの島を中継地点として抜け荷買い(密貿易)をしていたのではないか。そういった陶器類に 知多の店ではよう出会うことがあった」と唐九郎が語ったことがあった。
そういえば、江戸時代、吉原遊廓の経営者はその多くが南知多の出身であったという説もある。

昭和五年、三二歳の時につくった志野茶碗が時の大茶人、日本経済の牽引者であった益田鈍翁 (一八四八 ~ 一九三八)の眼にとまり、「氷柱」という銘がつけられた。茶碗の箱の蓋裏には鈍翁の字 で「藍は藍より出でて尚青く氷柱ハ水より出でて尚冷し 鈍翁誌」と記されている。いまこの茶碗 は、翠松園陶芸記念館の収蔵作品の目玉の一つだ。昭和六年には「黄瀬戸魚文花瓶」で帝展に初入 選し、彼の前途は洋々たるもののように思われた。

氷柱

ここまでの腕に達しながら作陶一本にしぼれず、唐九郎は懲りることなく古陶の研究から離れら れなかった。この時代、彼は陶磁史研究の上で重要な意味を持つ二つの大発掘を手がけた。のちに 「本山コレクション」と称される大阪毎日新聞・本山彦一社長の美濃・瀬戸古窯跡大発掘と、唐九 郎自身の発意で行った黄瀬戸を焼いた美濃の「窯下窯」の発掘である。昭和六年一月、美濃の古窯 跡を視察してきた論説委員の井上吉次郎が彼に助力を求め、唐九郎が正木社長への説得役となり、 発掘の中心的役割を担うことになってしまった。美濃は大萱、大平、久尻、笠原、郷ノ木、大川。 瀬戸は古瀬戸から赤津方面の古窯を発掘し、椿窯からはいいものが見つかった。途中からは加藤 土師萌(のちの東京藝大教授、人間国宝)も発掘調査に参加した。
翌七年(一九三二)には大萱の窯下窯の発掘にかかり、九月から三カ月間を費やしたが、この窯 では志野、黄瀬戸、瀬戸黒、あめ黒、柿釉等が焼かれたことが判明した。その中には以前から近く の小川で陶片を拾い、唐九郎が目をつけていた、茶人の言う本格黄瀬戸が含まれており、鉢類が多 く、向付、皿、香合、ぐい呑み、壺類等が出土した。梅、若草、あやめ、露草、蕪、大根、菊花、 秋草等が線彫りで軽快に描かれていた。


唐九郎編の『原色陶器大辞典』(淡交社、一九七二年)でも「窯下窯」の項で、「最もすぐれた黄瀬 戸を出し、有名なあやめ手のドラ鉢や宝珠香合などの黄瀬戸の名器は、すべてここでつくられたと いってよい。文禄二年(一五九三)銘の黄瀬戸の破片が出土して志野や黄瀬戸の年代を決定する貴 重な資料となったことは有名だ」と、記されている。
発掘の度ごとに新発見があり、過去の通説はことごとく覆されていった。

出典:稲垣喜代志著「唐九郎風録」