唐九郎伝:唐九郎風雲録③

『黄瀬戸』焚書事件と『陶器大辞典』の編纂

さて、昭和八年には大変な事件が起こった。同年二月、彼の初の著作『黄瀬戸』(宝雲舎)が刊行 されるや、瀬戸の町は上を下への大騒動となった。陶祖として神社に祀られている藤四郎を「”開 祖”ではない」と否定したことと、黄瀬戸、志野、織部は瀬戸固有のやきものではなく、本歌は美 濃で焼かれたものであることを発掘調査をふまえて実証的に論述し、通説を否定したからである。

当時の瀬戸の陶工たちは、こぞって江戸時代後期の瀬戸の名工・春岱(しゅんたい)の作品を手本として作陶し、 本歌の志野や織部とは似ても似つかぬものをつくつて大手を振っていた。彼らに対して、「エタイ の知れぬシロモノが黄瀬戸、志野、織部として、今日の瀬戸地方の工人達の脳裏に先入してゐる」 と書いたからなおさらである。陶工たちをはじめ、利害のからむ人々や、「神様を否定するとは何 事か」という人々が中心となって市民をたきつけ、「加藤唐九郎膺懲(ようちょう)瀬戸市民大会」なるものが陶 祖を祀る深川神社で開かれたり、『黄瀬戸』を大量に持ち寄り、神社の社前で焚書するという 事件が起きた。当時、瀬戸で発行されていた新聞には、「陶都瀬戸の不敬漢―市民の敵。加藤唐九 郎を膺懲せよ」といった記事が次々と掲載され、市民をあおり立てた。

深川神社

祖母懐にあった唐九郎の家には連日脅迫状が舞い込んだり、石が投げ込まれたり、火をつけられ るに及んで、ついに身の危険を感じて家族を別の場所に避難させることにしたが、そのうちに本人 が暴漢に襲われ、ビールビンで頭を殴られて重傷を負い、やむなく生まれ故郷の瀬戸をあとにする こととなった。唐九郎の別の弁によると、当時は東京などに行っていて家にいることが少なく、昭 和一〇年(一九三五)に良土を求めて、名古屋市郊外の守山町翠松園に移り住んだのだとも言う。
唐九郎の浮気はまだまだつづく。『黄瀬戸』の執筆のみならず、昭和九年(一九三四)から始まっ た『陶器大辞典』の刊行にかかわり、そのうち編纂主任という大役を引き受けてしまったのである。

陶器大辞典(宝雲舎)

作家活動も捨てたわけではないから大変だ。その上まだ発掘活動もつづける。
昭和一〇年の春のこと、妻のきぬは「夫が行方不明になってしまった」と困り果てていた。前年 の一二月に「ちょっと丹波まで発掘調査に行ってくる」と家を出たまま三カ月以上音信が全く絶え てしまった。丹波に手紙を出してみたら、「もうだいぶ前に唐津に行った」という返事がきた。唐 津に連絡してみたら、「もうこちらにはいない」とのことで行方は杏(よう)として知れなかった。しばらくして知人から、「朝鮮の鶏龍山(けいりゅうざん)で発掘をしているというハガキが届いた」という知らせがきた。
いつのまにか丹波から唐津へ行き、朝鮮にまで行ってしまっていたのである。食べるにも事欠くあ りさまの家族のことなど、唐九郎の頭の中からはきれいさっぱり消え去り、古陶磁のことのみに没 入していたのだ。
一つのことに打ち込むと、あとのすべてのことは忘れてしまう――とは言っても、これは極端な 一極集中である。この生き方、物凄い集中力と、浮気心の道草こそが、あの数々の名作を生み出す 源泉となったのではないか。
『陶器大辞典』編集にかかわってからは、社員のストライキに同情して宝雲舎を追い出されたり、 資金繰りをめぐって畏敬する小野賢一郎とも対立したこともあった。「唐九郎なら仕方ないさ」と 赦してもらえることも多かったが、持ち前の放縦な生き方が誤解を招くことも多くあったようだ。

出典:稲垣喜代志著「唐九郎風雲録」