ゆかりの地を訪ねて:平戸橋②唐九郎グルメ

唐九郎が戦時中疎開していた平戸橋での美味しいお話です。

矢作川

疎開していた平戸橋で唐九郎は戦時中にもかかわらず思いのほかゆたかな食を満喫していたようです。もはや 矢作川で天然の鰻や鮎を取ることはできませんし、 唐九郎が頻繁に土を採取していた土地にも多くの住宅が建ち並んでいます。ただし近郊ではまだ盛んに果樹栽培が行われています。戦時中の平戸橋でのゆたかな食について、唐九郎は『窯ぐれ往来』の中で多く語っています。一部ご紹介しましょう。

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戦争もだんだん末期になって来ると、都会ではひじょうな食料不足でみんな苦しんだが、平戸 橋付近は何といっても自然の産物が豊富だったから、そういう点では恵まれていた。
平戸橋へ行って本当の味を覚えたのは鮎だ。それまでは鮎というものの味を知らなかったとい ってもいい。鮎は生のまま食べても、千して干物にしてもおいしい。また鮎雑炊と、鮎飯という のもやる。味噌汁の中へも入れる。香魚と書くぐらいだから匂いがひじょうにいい。
ぼくは矢作川で取れたての鮎を食べてから、その後どこへ行って鮎を食べてもおいしいと思わ れなくなってしまった。ましてこの頃では養殖の鮎などというものは興醒めもはなはだしい。や っぱりきれいな川の中で成長した鮎でないとだめだ。
平戸橋時代にはぼくも土地の連中と一緒になってチンカラというのをやったことがある。これ は川上の方に網を張っておいて、石を放り込む。鮎というやつは、決して川の下の方へは行かな いで必ず上の方へ逃げる。それで川下の方から十人くらいで石を投げて網の中へ追い込んで捕え る。いっぺんにずいぶんたくさんとれる。
鮎が下る頃といえば秋の初め……八月から九月だったろう。とれたての生きている鮎の口の中 へ塩を一杯入れて、奉書紙でキリキリと巻いて、藁のニゴでしばって、河原の砂を三十センチく らいの深さに掘って鮎をまとめて埋める。その上でどんどこどんどこ火を焚く。そうするとそれ がいい具合に蒸し焼きになる。奉書紙が脂をみんな吸ってしまうのでこうして蒸し焼きにした鮎 はそれはそれはおいしい。この味は一度食べたら忘れられるものではない。

鮎ばかりでなく鰻もよくとれた。これは鮎と違って大きな流れでなくても、溝のような小川に もいた。ここへ生簀を仕掛けておく。生簀というのは口がジョウゴのようになっていて、 一旦入 ったら出られない。鰻というのはバカだから、 一匹入っているやつを上から覗くと何か中にエサ があって入っとるに違いないと思って何匹でも入る。しまいにしっぽを出して首だけつっこんで いるやつがあるほどいくらでも取れる。今はなかなか天然鰻などというものにお目にかかれなく なってしまったが、天然鰻は養殖鰻のように青黒くなく茶色っぽい色をしている。こういう鰻で なければいけない。
ぼくのいた安城館というのが大体鰻が売りものだったから鰻もよく食べた。鰻というのは一俵 くらいの炭を一度におこし強火で焼かないとうまくない。安城館のおばあさんも、おやじさんも、 娘も鰻を焼くのは上手だった。
足助の方では猪が取れた。これは寒くならないとだめだ。寒くなると山にエサがなくなるので 猪が里へ出て来たところを取るのだが、丸ごと二十日ぐらい河原の砂の中に埋めておかないと食 べられない。埋めておくと、どうなるのか知らんが、アオ臭いのが抜けて味がよくなる。砂だら けなのを川の水で洗ってそれから料理をする。これは日本一おいしい肉だと思う。
豚と同じようなものだが、猪は自然の中で成長しているからやはり豚肉とは比べものにならな いほど肉の風味がいい。焼いても、煮てもおいしい。味噌仕立の鍋ものなどにするのもいい。
それに、ここへ来て感心したのは、味噌のうまいことだった。これはどこの家で作った味噌も みなうまい。平戸橋に近い花本というところは一村みんな麹を作っていたところだから、このヘ んはどこでも自分のうちで味噌を仕込んでいた。毎年日にちが決まっていて隣り組で一緒に作る。
豆を茹で、筵の上に盛りあげておくと、岡崎の八丁味噌の技師長のような人が回って来て、塩を どれだけに麹をどれだけ、あとは何々、何々と教えて行く。それだけで素晴らしくおいしい味噌 が出来る。

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必要に追られて、うどんも自分でよく打った。 うどん粉をこねるのも土をこねるのも同じだからやきものを作る者はよくうどんを打つ。粉を 練るための大きい鉢まで焼いたくらいだ。粉を堅く練っておいて菰を被せて上から踏む。これも やきものの土と同じことだ。練ることがむずかしいだけで、伸ばして切ることぐらいは大したこ とはない。昭和三十五、六年頃だったと思うが、岐阜の青巒荘(せいらんそう)というところで素玄会(陶器愛好 グループ)の人たちに蕎麦を打って食べさせたことがある。純粋に蕎麦粉だけで打った蕎麦を食 べた者はそのおいしさが未だに忘れられんと言う。
蕎麦を作るコツはある程度蕎麦粉を堅く練っておいて、それに生ぬるの湯をかけてもう一度練 る。すると味が出る。それが普通だと滑ってしまってなかなか練ることが出来ないが、やきもの をやって土をこねたことのある者ならそれほどむずかしいことではない。
蕎麦粉だけで作ったものは、よく茹でて、さっと氷水の中へ入れて出来るだけ冷たくして水を 切ったら、そのまますぐ食べなければいけない。ちょっとでも時間が経つと切れてしよう。切れ ても味は変らないようなものだが、やっばり蕎麦はあの長さがなくてはうまくない。
打ちたて、ゆでたての蕎麦を冷たい水の中でよく揉み洗いしてザルに上げるとキラキラ光って いる。うまい食べものは大抵光っているものだ。


平戸橋は西瓜もおいしいところで、これもよく食べた。あそこの西瓜を食べたらもう他の西瓜は食べられない。
猿投山の麓だから昼間はひじょうに暑くて夜になると猿投おろしが吹き下ろして来て夜明けま でずーっと冷えるから、その間に果物の中にある成分がみんな糖化してしまうらしい。だから桃、 梨、葡萄など果物を作るには適した土地なのだ。
春には筍がいくらでも取れた。孟宗というやつは筍を取らないといけないというので、知り合い が「もらっとくれ、もらっとくれ」と言って持って来てくれた。そのお返しに茶わんか何かをやったりした。
やっばり、何といっても食料と換えられるようなモノを作っていたということは強味だった。
非常時だったから、芸術のどうのとは言ってられない時代だったが、ぼくとしては米と換える だけの茶わんでも、気に入らないものはどんどん割って捨てた。人から見れば、当時なかなか手 に入りにくい貴重な薪を使って焼いたものを、 一個でもむだにするのはもったいないはなしだっ たに違いない。
町なかでは食料不足に苦しんでいたが、当時は交通機関がひじょうに不自由だったからこうし た食料もここから運び出そうとすると困難をきわめた。

出典:加藤唐九郎著 『かまぐれ往来』 (新潮社)