唐九郎伝:唐九郎風雲録④

不死鳥

加藤唐九郎を語るとすれば、昭和三四年(一九五九)からの数年間、日本中を巻き込み話題をさ らった「永仁の壺」事件を抜きにして語ることはできない。先年催された回顧展を主催した新聞社 ですら、それを売り物にしようとしたくらいである。
鎌倉時代作と言われる「永仁二年」銘の古瀬戸灰釉瓶子(へいし)が、昭和三四年六月、国の重要文化財に 指定され、それが唐九郎作だったということがわかったため、昭和三六年(一九六一)四月に指定 が解除された。
この時のマスコミの報道は凄かった。唐九郎は贋物づくりの大悪人に仕立て上げられ、テレビや ラジオ、新聞、雑誌などで、連日のように攻撃のフラッシュにさらされた。唐九郎、六三歳のこと である。
昭和八年(一九三三)に起きた『黄瀬戸』事件といい、この事件といい、”絶体絶命”の 大事件に二度まで遭遇し、まず誰しもが彼の再起がかなうとは考えなかったと思うが、さながら 不死鳥(フェニックス)のように奇跡的に彼は甦った
昭和39年(一九五九)十月二十一日から二週間、毎日新聞社の主催で「オリンピック東京大会 記念・加藤唐九郎陶芸展」が東京・新宿の伊勢丹で催され、毎日新聞は、「大胆豪放完璧の技法
(桃山茶器)をついに再現した 陶芸の鬼(巨匠)唐九郎のすべて」と、宣伝にこれつとめた。

唐九郎作 黄瀬戸鉢

連日会場に殺到した鑑賞者たちは、二百点をこえるおびただしい数の作品群の迫力と作陶技量に 圧倒され、魅了された。古瀬戸、黄瀬戸、志野、織部、瀬戸黒、唐津、伊賀、信楽…などと、瀬
戸・美濃系の作品にとどまらず、しかも、茶碗、花生、水指、壺、長皿、大鉢、鉦鉢(どらばち)、酒器にいた るまで、向かうところ可ならざるはなし。「桃山の美の再現、伝統をこえる創造的表現」(谷川徹三)、 「そこに美の荘厳が……」(加山又造)等、ぞくぞくと賛辞が寄せられ、その成果によって昭和四〇 年(一九六五)一月一日、毎日芸術賞を受賞、唐九郎は陶芸界の第一人者としての声望をかち得た のである。

青山二郎

永仁事件直後の三六年一一月、名古屋・丸栄百貨店で開いた個展の折り、知る人ぞ知るその道の 達人(目利き)と言われ、小林秀雄、白洲正子らの古美術指南役でもあった青山二郎が東京からわ ざわざやってきて、会期中、毎日朝から夕方まで会場に坐っていた。前年の一〇月に『藝術新潮』 で唐九郎と対談した青山は唐九郎に何か惹かれるものがあり、作品に強い関心を持ったのだと思わ れる。茶碗だけの個展で、千点以上焼いた中から二十五点だけを選び並べた小品展だったが、「魯山人 の茶碗より良い」と青山はほっと胸をなで下ろした。
そして、『藝術新潮』三七年(一九六二)一月号には「永仁事件の解決の鍵は、唐九郎が今後永仁の壺以上の物を造って行くことだ。早い話が重要美術品以上の物を作ることだと前に言ったが、唐
九郎は軽くそれを実現して見せた」(「唐九郎を”鑑定”する」)と書き、そのあと、伊勢丹展実現の ために骨を折ったと言われている。

稲垣喜代志著「唐九郎風雲録」