当館の一品:「氷柱」② 

「氷柱」と鈍翁

その頃、知り合った人々が、祖母懐のささやかな茶室を訪れることもしばしばあった。茶人としても有名な、東京の横井夜雨(半二郎)さんが来られた時、 一月に焼けた茶わんで、茶を供したことがあった。
横井さんは、ひどく感心して、「これは是非、益田鈍翁のところへ持って行こう」
と、私の手から取り上げるようにして、五点とも持って行かれた。横井さんは当時三井物産の重役で、益田鈍翁の傘下では最も有力だと言われた人である。
その後、横井さんには、上京する度に芝琴平町のお宅へ泊めてもらったり、たいへんお世話になった。横井さんは人の面倒を見ることを少しも嫌(いと)われぬ人であった。
横井さんを私に紹介してくれたのは、関東大震災直前、名古屋の三井物産代表として赴任して来た佐羽未央(総太郎)という人だったが、こうした人々によって、私はずいぶん茶道美術の知識を深めるこ とが出来た。
益田鈍翁は、私の茶わんの一つに「氷柱」という銘をつけられた。この「氷柱」は、今縁あって私の手元に戻って来ている。箱書の裏に「藍は青より出でて、尚青く、氷柱は水より出でて尚冷し 鈍翁誌」とある。
私は「氷柱」という銘を選ばれたという一事をしても、鈍翁という人は、大した人だ
と思った。

「氷柱」 昭和5年

茶の行きつくところは禅であり、枯山水である。それは冷いということであり、何もないということである。利休の求めた茶の精神は、永い生命を持たないもの、仮の娑婆の、仮のすがたである。水が凍ってかたちを成した「氷柱」もこの世の仮のすがたに他ならない。
時代が変わり、武家的で堅牢なものを好む古田織部正によって新しい茶の様式が生れ、志野が作られた。その後長い歳月を経て、鈍翁に至った茶は、自から、利休の頃のものではない。
井上馨、益田鈍翁、原三渓という系列の、いずれも財力にものを言わせ、豪奢をきわめた茶を ”大正成金茶道 ”と呼んだこともあるが、その奥に、ものの本質を見窮める確かな目があることを知った。

益田鈍翁

祖母懐へ移った頃、やきもののことを研究したいといって、瀬戸へ来ていた福田桜一という男が居た。彼は、小森忍、矢野陶々、加藤青山、加藤作助、それに麦袋や私のところへ、しょっちゅう出入りして、仕事場や窯場をのぞいたり、いろいろ作陶に関することを聞き書きしたりしていた。と言っても別に陶器を作りたいというのでもなさそうだし、私には、物好きな人間としか見えなかった。
おそらく、彼あたりが情報の伝達役をつとめたのであろうと思うが、私が志野が焼けたと言って喜んでいるということは、案外な早さで人に知られることとなった。
ただし、瀬戸の連中が関心を持ったのは、桃山の風格をもった志野が焼けたなどということではなくて、その後三井のえらいさんが買い上げて行ったとか、どうやらそれがいい金になったらしいとかいったような情報であった。
その時のいろんな世評は「今更志野が焼けた、焼けたと、唐九郎だけが手柄顔をするのがおかしい、志野は室町時代に、志野宗信が始めて、瀬戸ではそこいら中で、やらんもんなしにいくらでも焼いとるじゃないか」といったようなものだった。
そういう手合は、麦袋の志野のようなものすら知らず、磁器の釉を採った長石のかすを塗って、鬼志野だと称している程度のものだった。
志野宗信が、志野焼の創始者で、瀬戸の陶工に命じて馬ヶ城の椿窯で焼かせたという説は、天明五年(一七八五)正月、水野代官所から、尾張藩茶道方へ録上した公文書にそう書かれてあるところから、瀬戸の文献類はみなそれを引いており、長くそれが信じられて来た。その時、すでに私は、これについても異説を持っていたが、それは昭和七年の『茶わん』誌十一月号に載った第一回「茶わん倶楽部講演会」記録「志野につい
て」でくわしく述べている。

出典:加藤唐九郎著『土と炎の迷路』(日本経済新聞社)