唐九郎伝:唐九郎風雲録⑤

日記の索引

私が唐九郎さんと初めて出会ったのはその直後のことで、昭和38年(1963)の初め、私は まだ20代の若造だった。それから二十年の歳月にわたって親しい関係がつづき、彼から多くのものを学んだ。
東京で新聞の仕事をしていた私がその前年の夏、ふと、ラジオのスイッチをひねると、ちょうど ラジオ東京(発信局は、名古屋のCBC)の録音構成で”永仁事件”の特別番組をやっており、唐九郎さんが過激に弁じ立てていた。日本の文化行政のあり方、とくに文化の中央集権、無知な官僚に よる文化の支配とその弊害についての痛烈な批判を耳にして、私はびっくりした。 一陶工の発言と は到底私には思えなかった。マスコミによって”大罪人”と烙印を捺(お)され、断罪されていた渦中の 唐九郎の奇想天外な発想による発言の数々が、それまで私が耳にした、いかなる知識人の意見より も新鮮で説得力があるように思え、痛快だった。これは大変な男だ。ぜひ彼に会ってみたいと思った。そのことを文学者の杉浦明平、広末保、丸山静氏らに話したら、「あれは凄い人物だ」とのこ
と。ますます唐九郎さんに興味がわいた。
唐九郎さんを訪ねたのは、翌年、名古屋に移り住んでまもなくのことだ。敵地に単身のり込む思 いで硬直していた私を彼は心やすく迎え入れてくれ、同年代の人に対するように対等に応対して くれたのが、いま懐かしく思い出される。齢に似合わず「ぼくはね・・・」とか「あなたは・・・」 とか。言葉づかいも若々しく、ていねいであった。挨拶もそこそこに話ははずみ、熱し、昼食もご馳走になり、ついつい夜遅くまで居つづけてしまった。これが、私が唐九郎の ”虜”になるきっかけであった。

話した内容はいま詳(つまび)らかに覚えてはいないが、社会、政治、経済、歴史、思想史、美術……とジャンルも万般にわたり、読んでいる書物の幅もとてつもなく広かった。「どうしてこの人はこんな
百科事典のような頭を持っているのか」と、不思議であった。驚いたのは、「ぼくは瀬戸の近代史を学問的に解明しようと勉強してきたんじゃが、明治維新を封建社会から近代への”革命”だと位置づける講座派(いま風に言葉を変えて表現するとすれば「マルクス原理主義」か)の理論ではなかなか理屈通りにはいかんのじゃ。やはり労農派(「構造改革主義」か)の封建的なものを残しながら近代
への漸次移行という理論でないと、経済と密接にかかわりあう瀬戸の近代史は解けないんじゃよ。 机上では何とでも言えようが、実際に現実を照らし合わせながらやってみるとそうはいかない」と、学者はだしの意見が出てきたことであった。
また、昭和史のある事件について話していると、「きみの言う年月日は違っているよ」と指摘され、「いや、○○の文献にこう出ている」と抗弁したところ、「ちょっと待ってくれよ」と奥の部屋へ行き、 一冊のノートを持ってきて、「これはぼくの日記の索引じゃよ。あ、あった」とまた奥へ。今度は分厚い日記の綴じ込みを持ってきて、「ここにそのことが書いてある。この日、人と議論していて、その文献もちょっとおかしいということになり、あとでいろいろ調べたんじゃ。その結果がここに書いてある。まちがいない」と、その日記を読んで聞かせてくれた。いやはや驚いた。日記の索引までつくっている人がいるとは。あとになって気付いたことだが、このマニヤックなまでの几帳面さと、飽くなき好奇心が、あの巨大な『陶器大辞典』(B4判、全六巻、各巻平均1000頁/宝雲舎、昭和十六年〈1941〉完結)を生み出す源泉であったのだ。

陶器大辞典全6巻(宝雲舎)

帰宅しようとすると、「最近読んだ本で面白かったのは何かね」と唐九郎さんがたずねた。「明治10年(1877)の西南戦争の頃、戦乱の熊本城下で育ち、陸軍士官学校を出て世界一の軍事大国ロシアに留学、その後数奇な運命をたどった石光真清の自伝『城下の人』から始まる四部作と、荒畑寒村の自伝です」と答えると、「それを貸してもらえないか。それと『福翁自伝』を持っていないか」と言う。
唐九郎さんとの出会いの日は、私にとって衝撃的な一日となった。「あの本のおかげで三日徹夜をしてしまったよ」と笑いながら、彼はあとで感想を述べてくれた。

稲垣喜代志著「唐九郎風雲録」

「唐九郎がいざなう心の旅」

第一回「氷柱」①

評論家武田洋平氏による書き下ろしエッセイ「唐九郎がいざなう心の旅」の連載がいよいよ始まります。第一回目となる今回は、唐九郎の初期の代表作「氷柱」にいざなわれ、武田さんの心は南欧ギリシャへと旅立ちます。

1回「霊峰オリュムポスの逆さ絵」

見込みを覗き込むと、赤茶がかった器の内肌をトロけるような白の釉薬が直下また斜行し、向きを変えて基底に広範な乳白色の澱を這わせている。外肌はと見れば、枡形に刻まれた白線により強調された白の領域が、赤さび色の地を完璧に抑え込んで見える。

昭和5年世に生まれ落ち、三井物産の総帥にして高名な茶人でもあった益田鈍翁(孝)により「氷柱」と銘された、此の唐九郎の逸品である志野茶盌は、二つの色が入り乱れての陣取り合戦により、よりアクティヴな存在感で迫ってくる。

許されて掌に載いたとき、凡そ半世紀ちかく昔、ハタチ台の半ば暫く生活の拠点を据えた北ギリシャでの初春の日々を思い出した。器の下部に延びた無垢にしてたおやかな白の輝きから、頂になごり雪を冠るオリュムポス(オリンポス)山がエーゲ海に落ち込み、波間に白きアイコンを投影することで生み出される色彩のコントラストを連想したのだ。今にして思うに、こんにちなお神おわします国に脚を踏み入れた遠来の旅人の目には、眩し過ぎるほどのカウンターパンチであった。

北隣のブルガリアに宗教美術研究で留学するにあたり、中世此の方ヨーロッパの東半分をキリストの威光で染め上げた東方正教のイメージを事前修得すべく選んだ地が、首都アテネに次ぐギリシャ第二の都会テッサロニキであった。新約聖書にも登場するかと思えばビザンチン時代の残影を諸処に垣間見せるといった、幾層にも異文明を吸い込んだ歴史的古都である。春まだきドイツから車を転がしてバルカン半島の南方にまで辿り着き、国境を越えて初めて立ち現れた大海を抱える此の町を適当に流していると、やがて静かな漁村に出くわした。ビーチに沿って長いプロムナードに面して、一階が茶房で二、三階が旅籠という瀟洒な白い建物が薄暮の中に輝いて見える。明らかにシーズン外れ、交渉の結果、驚くほど安く最上階オーシャンビューの一部屋を長期契約で借り上げることができた。

翌朝、南国特有の強い陽光を遮断すべく外に向かって四十五度傾く桟を抱え込み、大理石張りの床まで落ちる大振りな雨戸を開け放ってバルコニーに出れば、テルマイコス湾の遥か西方の対岸に、聖なる山が遠目に霞んで見えた。早朝営業の隣の食料品屋でハムとバターとチーズそれにパンをかき集め、バルコニーの小さなテーブルに其れ等をバラっとブチ撒けて朝食を摂ってみた。
眼下に展開する松林を透かし見れば、波も立たず静謐な海原の向こうから、役目を了えたランプの灯が徹夜の仕事ぶりを物語る小さな漁船が連なって入江に戻ってくる。烏賊釣りの船に見えた。マタイ伝には、ガリラヤの湖畔で投網の男たちを「人間を漁(すなど)る漁師に」とイエスが誘うシーンが嵌め込まれている。さすれば私も漁られるのだろうか。書き割りも登場人物も揃ってる。一瞬私は、神話世界のドラマの中に絡め取られたような気分に襲われた。
その日から、夜明けどきが待ち遠しく感じられるようになった。オリュムポスは山それ自体の形が蠱惑的であるのみならず、闇を突き破って東方より立ち昇る太陽を光源に、暗から明に至る時の経過の中でグラデーションよろしくシルエットとして海面に揺らめく逆さ絵もまた神秘性を補完し、二つながら此の世に於ける神の栄光を物語るに充分であった。その麓を縫うヨーロッパ自動車道路75号線で終着アテネにしばしば出かけたが、通りがかりに敬意と日頃の謝意を表すのを決して忘れはしなかった。

振り返れば、夢であり且つ現でもある朝のひとときこそ、畏れ多くも独り占めに成功した人間が神との合一感に浸れる一瞬であった。そのとき味を占めた独占欲は、いま掌中に浮き上がる「氷柱」でも鮮やかに再現されている。但し、対座の相手は天なる神ではない。その対極、陶土を求めて大地を彷徨う陶工・加藤唐九郎その人の魂である。

高台の静閑な住宅街に密やかに構える唐九郎記念館の庭の周囲を固める木々に宿借りしたヒグラシが、ゆく夏を愛おしむかの如く一斉に張り上げる惜別の歌を耳に掬い上げつつ、私は暫し至福のときに酔いしれるのであった。

「唐九郎がいざなう心の旅」ギリシャ編 完

当館の一品:「氷柱」② 

「氷柱」と鈍翁

その頃、知り合った人々が、祖母懐のささやかな茶室を訪れることもしばしばあった。茶人としても有名な、東京の横井夜雨(半二郎)さんが来られた時、 一月に焼けた茶わんで、茶を供したことがあった。
横井さんは、ひどく感心して、「これは是非、益田鈍翁のところへ持って行こう」
と、私の手から取り上げるようにして、五点とも持って行かれた。横井さんは当時三井物産の重役で、益田鈍翁の傘下では最も有力だと言われた人である。
その後、横井さんには、上京する度に芝琴平町のお宅へ泊めてもらったり、たいへんお世話になった。横井さんは人の面倒を見ることを少しも嫌(いと)われぬ人であった。
横井さんを私に紹介してくれたのは、関東大震災直前、名古屋の三井物産代表として赴任して来た佐羽未央(総太郎)という人だったが、こうした人々によって、私はずいぶん茶道美術の知識を深めるこ とが出来た。
益田鈍翁は、私の茶わんの一つに「氷柱」という銘をつけられた。この「氷柱」は、今縁あって私の手元に戻って来ている。箱書の裏に「藍は青より出でて、尚青く、氷柱は水より出でて尚冷し 鈍翁誌」とある。
私は「氷柱」という銘を選ばれたという一事をしても、鈍翁という人は、大した人だ
と思った。

「氷柱」 昭和5年

茶の行きつくところは禅であり、枯山水である。それは冷いということであり、何もないということである。利休の求めた茶の精神は、永い生命を持たないもの、仮の娑婆の、仮のすがたである。水が凍ってかたちを成した「氷柱」もこの世の仮のすがたに他ならない。
時代が変わり、武家的で堅牢なものを好む古田織部正によって新しい茶の様式が生れ、志野が作られた。その後長い歳月を経て、鈍翁に至った茶は、自から、利休の頃のものではない。
井上馨、益田鈍翁、原三渓という系列の、いずれも財力にものを言わせ、豪奢をきわめた茶を ”大正成金茶道 ”と呼んだこともあるが、その奥に、ものの本質を見窮める確かな目があることを知った。

益田鈍翁

祖母懐へ移った頃、やきもののことを研究したいといって、瀬戸へ来ていた福田桜一という男が居た。彼は、小森忍、矢野陶々、加藤青山、加藤作助、それに麦袋や私のところへ、しょっちゅう出入りして、仕事場や窯場をのぞいたり、いろいろ作陶に関することを聞き書きしたりしていた。と言っても別に陶器を作りたいというのでもなさそうだし、私には、物好きな人間としか見えなかった。
おそらく、彼あたりが情報の伝達役をつとめたのであろうと思うが、私が志野が焼けたと言って喜んでいるということは、案外な早さで人に知られることとなった。
ただし、瀬戸の連中が関心を持ったのは、桃山の風格をもった志野が焼けたなどということではなくて、その後三井のえらいさんが買い上げて行ったとか、どうやらそれがいい金になったらしいとかいったような情報であった。
その時のいろんな世評は「今更志野が焼けた、焼けたと、唐九郎だけが手柄顔をするのがおかしい、志野は室町時代に、志野宗信が始めて、瀬戸ではそこいら中で、やらんもんなしにいくらでも焼いとるじゃないか」といったようなものだった。
そういう手合は、麦袋の志野のようなものすら知らず、磁器の釉を採った長石のかすを塗って、鬼志野だと称している程度のものだった。
志野宗信が、志野焼の創始者で、瀬戸の陶工に命じて馬ヶ城の椿窯で焼かせたという説は、天明五年(一七八五)正月、水野代官所から、尾張藩茶道方へ録上した公文書にそう書かれてあるところから、瀬戸の文献類はみなそれを引いており、長くそれが信じられて来た。その時、すでに私は、これについても異説を持っていたが、それは昭和七年の『茶わん』誌十一月号に載った第一回「茶わん倶楽部講演会」記録「志野につい
て」でくわしく述べている。

出典:加藤唐九郎著『土と炎の迷路』(日本経済新聞社)

唐九郎伝:唐九郎風雲録④

不死鳥

加藤唐九郎を語るとすれば、昭和三四年(一九五九)からの数年間、日本中を巻き込み話題をさ らった「永仁の壺」事件を抜きにして語ることはできない。先年催された回顧展を主催した新聞社 ですら、それを売り物にしようとしたくらいである。
鎌倉時代作と言われる「永仁二年」銘の古瀬戸灰釉瓶子(へいし)が、昭和三四年六月、国の重要文化財に 指定され、それが唐九郎作だったということがわかったため、昭和三六年(一九六一)四月に指定 が解除された。
この時のマスコミの報道は凄かった。唐九郎は贋物づくりの大悪人に仕立て上げられ、テレビや ラジオ、新聞、雑誌などで、連日のように攻撃のフラッシュにさらされた。唐九郎、六三歳のこと である。
昭和八年(一九三三)に起きた『黄瀬戸』事件といい、この事件といい、”絶体絶命”の 大事件に二度まで遭遇し、まず誰しもが彼の再起がかなうとは考えなかったと思うが、さながら 不死鳥(フェニックス)のように奇跡的に彼は甦った
昭和39年(一九五九)十月二十一日から二週間、毎日新聞社の主催で「オリンピック東京大会 記念・加藤唐九郎陶芸展」が東京・新宿の伊勢丹で催され、毎日新聞は、「大胆豪放完璧の技法
(桃山茶器)をついに再現した 陶芸の鬼(巨匠)唐九郎のすべて」と、宣伝にこれつとめた。

唐九郎作 黄瀬戸鉢

連日会場に殺到した鑑賞者たちは、二百点をこえるおびただしい数の作品群の迫力と作陶技量に 圧倒され、魅了された。古瀬戸、黄瀬戸、志野、織部、瀬戸黒、唐津、伊賀、信楽…などと、瀬
戸・美濃系の作品にとどまらず、しかも、茶碗、花生、水指、壺、長皿、大鉢、鉦鉢(どらばち)、酒器にいた るまで、向かうところ可ならざるはなし。「桃山の美の再現、伝統をこえる創造的表現」(谷川徹三)、 「そこに美の荘厳が……」(加山又造)等、ぞくぞくと賛辞が寄せられ、その成果によって昭和四〇 年(一九六五)一月一日、毎日芸術賞を受賞、唐九郎は陶芸界の第一人者としての声望をかち得た のである。

青山二郎

永仁事件直後の三六年一一月、名古屋・丸栄百貨店で開いた個展の折り、知る人ぞ知るその道の 達人(目利き)と言われ、小林秀雄、白洲正子らの古美術指南役でもあった青山二郎が東京からわ ざわざやってきて、会期中、毎日朝から夕方まで会場に坐っていた。前年の一〇月に『藝術新潮』 で唐九郎と対談した青山は唐九郎に何か惹かれるものがあり、作品に強い関心を持ったのだと思わ れる。茶碗だけの個展で、千点以上焼いた中から二十五点だけを選び並べた小品展だったが、「魯山人 の茶碗より良い」と青山はほっと胸をなで下ろした。
そして、『藝術新潮』三七年(一九六二)一月号には「永仁事件の解決の鍵は、唐九郎が今後永仁の壺以上の物を造って行くことだ。早い話が重要美術品以上の物を作ることだと前に言ったが、唐
九郎は軽くそれを実現して見せた」(「唐九郎を”鑑定”する」)と書き、そのあと、伊勢丹展実現の ために骨を折ったと言われている。

稲垣喜代志著「唐九郎風雲録」

「やきもの一問一答」:第三回 「土のこと」①

◎やきものについて一焼き、二土(つち)三細工といわれるようですが…。

陶器ばかりはまったく土と焼き方じゃ。結局は焼きが一 番難しいし微妙なんだ。やきものを窯焼きというくらいだ からね。窯の焼き方が上手なら陶工として秀れておるけれ ども、いかなる条件がそろっていても窯の焼き方が下手だ ったら物にならない。それから、素地が悪いと焼き方が上 手であっても良い調子にならないから土が大事なんじゃね。 で細工は、勉強すれば誰でもできる。焼き方と土の選定に は半ば天性的なものがあるからね。

◎やきものにいい土とはどういう土ですか?

それは、″磁器″のところでもいったカオリン性の高い土 なんじゃ。結局、やきものの原料になっているのは御影石 で、この御影石は、火山によってできたものではなく、地 球誕生当時からあった岩石がそのまま水に漬かって固まっ たものといわれている。学者のいうことだからあてにはな らんが……、本当の天然産の石であるという。この御影石 は長石と珪石と雲母の三つから成っている。この長石の結 晶体が風化分解したものがカオリンなんだ。つまり、空気 や水や光線におかされて細かな土になったのがカオリン。 これが陶土に欠かせないものなんじゃ。

◎カオリン性の高い、いい土をどうして見分けるのですか?

それは巾着切りが人の懐にいくらあるかわかるような もので、勘としかいいようがない。木の生え方、水の流れ、 山の形、どれも一様ではないけれども、パッとわかるんだ。 走る汽車の中からでもわかるし、映画をみていてもわかる んだよ。たとえば飛行機に乗っていて、下を見てても、あ あ、あそこにいい土があるとわかる。僕はシベリアからモ スクワ、モンゴルヘとやってくる時に、何ヵ所降りてみた かったかしれん。カオリンのいい層がず―っとみえている んだね。

◎日本の中で特にいい陶土がとれるのはどこですか?

アップライト地帯といって、御影石がやや風化して柔か くなっているものが山になっているところにはたくさんあ る。特に愛知県と岐阜県との境一帯はアップライト地帯な んだ。つまり瀬戸から美濃、三河へかけての一帯じゃ。そ うした山々に雨が降って水が流れ、長石が風化したものが ずるずると流れてきて溜ったのが陶土になる。この陶土に は爽雑物も入っておるが、主要成分はカオリンだ。 第二に伊賀、信楽。ここもアップライト地帯。

猿投山

◎風景としてみて、アップライト地帯の特徴はありますか?

峰が尖っていてね、谷ができている。まあ矩形(くけい)の谷のあ
るところなら必ずやきものに良い土がある。そして下に陶 土があるところでは上に伸びる樹は生えないんじゃ。とい うのは、樹木というものは、親根が下にずっと通らなくて は上に伸びてこない。ところが下に粘土があると、根が横 に這ってしまう。だから樹をみただけでもわかる。果樹園 をやっておるところはたいてい下に陶土があるね。


◎唐津ものの土は何ですか?

やはり主要成分はカオリンだね。ただ九州地方は鉄分が 非常に多い。カオリンは鉄を吸収するが、鉄分が少ないほ ど優良な粘土といわれている。陶片をみると素地が黒いの は鉄分が入っているからだ。


◎瀬戸と伊賀や信楽の土との違いは何ですか?

日本の陶土は、カオリンがたくさんまじっているものの、 他の粘土も入っている。それに結晶体の大きなものもあれば 粘土になったものもある。それが焼いた場合の違いになって くるね。瀬戸や美濃地方のものは粘力をもった陶土なんだ。 蛙眼(がいろめ)と木節土(きぶしつち)がこの辺の独特の 土なんじゃ。

◎ 蛙眼 と木節土について教えて下さい。

蛙目というのは、瀬戸では蛙のことをガイロと呼ぶんだ ね。水に浸すと珪石がでてきて、ちょうど蛙の目のように 光る、そんな土を蛙目と呼ぶ。これを水でこすといい粘土 がとれる。
木節土は、これがあることによって日本の土が世界で最 良とされるほどいい土なんだ。この木節もカオリシなんだ けど色は黒い。木が腐蝕して入っているからなんだ。考え てみると濃尾平野も三河平野ももとは森林地帯であったに 違いない。それが木曽川の長い間の作業で埋まって平野に なったんじゃろう。こうして埋まったなかでも瀬戸から美 濃にかけて、御影石の風化層の中に埋まってカオリン性の 高いものが木の中に吸収されたものが木節土なんだ。木 の 中にカオリンが吸収されて粘土化しているんで木の痕跡が あっても木ではない。焼けば木は燃えちゃう。焼けばカオ リンになるんだから。 木節土も蛙目も瀬戸弁で、これが世界共通の学術語にな っているんだよ。本質的にはこの二つは同じ物だけど、粘 力が違う。たぶん木の中にある粘力性の違いだろう。木の 養分が糊のような粘力になって木節のほうに残っているん だね。で、よく練った木節の土だと、自分の背の高さくら いまで伸びる。こういう扱いやすい作りやすい土があるか ら、瀬戸でいくらでも安いやきものができるんだ。

続く

出典:唐九郎著『唐九郎のやきもの教室』(新潮社)

ゆかりの地を訪ねて:平戸橋②唐九郎グルメ

唐九郎が戦時中疎開していた平戸橋での美味しいお話です。

矢作川

疎開していた平戸橋で唐九郎は戦時中にもかかわらず思いのほかゆたかな食を満喫していたようです。もはや 矢作川で天然の鰻や鮎を取ることはできませんし、 唐九郎が頻繁に土を採取していた土地にも多くの住宅が建ち並んでいます。ただし近郊ではまだ盛んに果樹栽培が行われています。戦時中の平戸橋でのゆたかな食について、唐九郎は『窯ぐれ往来』の中で多く語っています。一部ご紹介しましょう。

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戦争もだんだん末期になって来ると、都会ではひじょうな食料不足でみんな苦しんだが、平戸 橋付近は何といっても自然の産物が豊富だったから、そういう点では恵まれていた。
平戸橋へ行って本当の味を覚えたのは鮎だ。それまでは鮎というものの味を知らなかったとい ってもいい。鮎は生のまま食べても、千して干物にしてもおいしい。また鮎雑炊と、鮎飯という のもやる。味噌汁の中へも入れる。香魚と書くぐらいだから匂いがひじょうにいい。
ぼくは矢作川で取れたての鮎を食べてから、その後どこへ行って鮎を食べてもおいしいと思わ れなくなってしまった。ましてこの頃では養殖の鮎などというものは興醒めもはなはだしい。や っぱりきれいな川の中で成長した鮎でないとだめだ。
平戸橋時代にはぼくも土地の連中と一緒になってチンカラというのをやったことがある。これ は川上の方に網を張っておいて、石を放り込む。鮎というやつは、決して川の下の方へは行かな いで必ず上の方へ逃げる。それで川下の方から十人くらいで石を投げて網の中へ追い込んで捕え る。いっぺんにずいぶんたくさんとれる。
鮎が下る頃といえば秋の初め……八月から九月だったろう。とれたての生きている鮎の口の中 へ塩を一杯入れて、奉書紙でキリキリと巻いて、藁のニゴでしばって、河原の砂を三十センチく らいの深さに掘って鮎をまとめて埋める。その上でどんどこどんどこ火を焚く。そうするとそれ がいい具合に蒸し焼きになる。奉書紙が脂をみんな吸ってしまうのでこうして蒸し焼きにした鮎 はそれはそれはおいしい。この味は一度食べたら忘れられるものではない。

鮎ばかりでなく鰻もよくとれた。これは鮎と違って大きな流れでなくても、溝のような小川に もいた。ここへ生簀を仕掛けておく。生簀というのは口がジョウゴのようになっていて、 一旦入 ったら出られない。鰻というのはバカだから、 一匹入っているやつを上から覗くと何か中にエサ があって入っとるに違いないと思って何匹でも入る。しまいにしっぽを出して首だけつっこんで いるやつがあるほどいくらでも取れる。今はなかなか天然鰻などというものにお目にかかれなく なってしまったが、天然鰻は養殖鰻のように青黒くなく茶色っぽい色をしている。こういう鰻で なければいけない。
ぼくのいた安城館というのが大体鰻が売りものだったから鰻もよく食べた。鰻というのは一俵 くらいの炭を一度におこし強火で焼かないとうまくない。安城館のおばあさんも、おやじさんも、 娘も鰻を焼くのは上手だった。
足助の方では猪が取れた。これは寒くならないとだめだ。寒くなると山にエサがなくなるので 猪が里へ出て来たところを取るのだが、丸ごと二十日ぐらい河原の砂の中に埋めておかないと食 べられない。埋めておくと、どうなるのか知らんが、アオ臭いのが抜けて味がよくなる。砂だら けなのを川の水で洗ってそれから料理をする。これは日本一おいしい肉だと思う。
豚と同じようなものだが、猪は自然の中で成長しているからやはり豚肉とは比べものにならな いほど肉の風味がいい。焼いても、煮てもおいしい。味噌仕立の鍋ものなどにするのもいい。
それに、ここへ来て感心したのは、味噌のうまいことだった。これはどこの家で作った味噌も みなうまい。平戸橋に近い花本というところは一村みんな麹を作っていたところだから、このヘ んはどこでも自分のうちで味噌を仕込んでいた。毎年日にちが決まっていて隣り組で一緒に作る。
豆を茹で、筵の上に盛りあげておくと、岡崎の八丁味噌の技師長のような人が回って来て、塩を どれだけに麹をどれだけ、あとは何々、何々と教えて行く。それだけで素晴らしくおいしい味噌 が出来る。

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必要に追られて、うどんも自分でよく打った。 うどん粉をこねるのも土をこねるのも同じだからやきものを作る者はよくうどんを打つ。粉を 練るための大きい鉢まで焼いたくらいだ。粉を堅く練っておいて菰を被せて上から踏む。これも やきものの土と同じことだ。練ることがむずかしいだけで、伸ばして切ることぐらいは大したこ とはない。昭和三十五、六年頃だったと思うが、岐阜の青巒荘(せいらんそう)というところで素玄会(陶器愛好 グループ)の人たちに蕎麦を打って食べさせたことがある。純粋に蕎麦粉だけで打った蕎麦を食 べた者はそのおいしさが未だに忘れられんと言う。
蕎麦を作るコツはある程度蕎麦粉を堅く練っておいて、それに生ぬるの湯をかけてもう一度練 る。すると味が出る。それが普通だと滑ってしまってなかなか練ることが出来ないが、やきもの をやって土をこねたことのある者ならそれほどむずかしいことではない。
蕎麦粉だけで作ったものは、よく茹でて、さっと氷水の中へ入れて出来るだけ冷たくして水を 切ったら、そのまますぐ食べなければいけない。ちょっとでも時間が経つと切れてしよう。切れ ても味は変らないようなものだが、やっばり蕎麦はあの長さがなくてはうまくない。
打ちたて、ゆでたての蕎麦を冷たい水の中でよく揉み洗いしてザルに上げるとキラキラ光って いる。うまい食べものは大抵光っているものだ。


平戸橋は西瓜もおいしいところで、これもよく食べた。あそこの西瓜を食べたらもう他の西瓜は食べられない。
猿投山の麓だから昼間はひじょうに暑くて夜になると猿投おろしが吹き下ろして来て夜明けま でずーっと冷えるから、その間に果物の中にある成分がみんな糖化してしまうらしい。だから桃、 梨、葡萄など果物を作るには適した土地なのだ。
春には筍がいくらでも取れた。孟宗というやつは筍を取らないといけないというので、知り合い が「もらっとくれ、もらっとくれ」と言って持って来てくれた。そのお返しに茶わんか何かをやったりした。
やっばり、何といっても食料と換えられるようなモノを作っていたということは強味だった。
非常時だったから、芸術のどうのとは言ってられない時代だったが、ぼくとしては米と換える だけの茶わんでも、気に入らないものはどんどん割って捨てた。人から見れば、当時なかなか手 に入りにくい貴重な薪を使って焼いたものを、 一個でもむだにするのはもったいないはなしだっ たに違いない。
町なかでは食料不足に苦しんでいたが、当時は交通機関がひじょうに不自由だったからこうし た食料もここから運び出そうとすると困難をきわめた。

出典:加藤唐九郎著 『かまぐれ往来』 (新潮社)

唐九郎伝:唐九郎風雲録③

『黄瀬戸』焚書事件と『陶器大辞典』の編纂

さて、昭和八年には大変な事件が起こった。同年二月、彼の初の著作『黄瀬戸』(宝雲舎)が刊行 されるや、瀬戸の町は上を下への大騒動となった。陶祖として神社に祀られている藤四郎を「”開 祖”ではない」と否定したことと、黄瀬戸、志野、織部は瀬戸固有のやきものではなく、本歌は美 濃で焼かれたものであることを発掘調査をふまえて実証的に論述し、通説を否定したからである。

当時の瀬戸の陶工たちは、こぞって江戸時代後期の瀬戸の名工・春岱(しゅんたい)の作品を手本として作陶し、 本歌の志野や織部とは似ても似つかぬものをつくつて大手を振っていた。彼らに対して、「エタイ の知れぬシロモノが黄瀬戸、志野、織部として、今日の瀬戸地方の工人達の脳裏に先入してゐる」 と書いたからなおさらである。陶工たちをはじめ、利害のからむ人々や、「神様を否定するとは何 事か」という人々が中心となって市民をたきつけ、「加藤唐九郎膺懲(ようちょう)瀬戸市民大会」なるものが陶 祖を祀る深川神社で開かれたり、『黄瀬戸』を大量に持ち寄り、神社の社前で焚書するという 事件が起きた。当時、瀬戸で発行されていた新聞には、「陶都瀬戸の不敬漢―市民の敵。加藤唐九 郎を膺懲せよ」といった記事が次々と掲載され、市民をあおり立てた。

深川神社

祖母懐にあった唐九郎の家には連日脅迫状が舞い込んだり、石が投げ込まれたり、火をつけられ るに及んで、ついに身の危険を感じて家族を別の場所に避難させることにしたが、そのうちに本人 が暴漢に襲われ、ビールビンで頭を殴られて重傷を負い、やむなく生まれ故郷の瀬戸をあとにする こととなった。唐九郎の別の弁によると、当時は東京などに行っていて家にいることが少なく、昭 和一〇年(一九三五)に良土を求めて、名古屋市郊外の守山町翠松園に移り住んだのだとも言う。
唐九郎の浮気はまだまだつづく。『黄瀬戸』の執筆のみならず、昭和九年(一九三四)から始まっ た『陶器大辞典』の刊行にかかわり、そのうち編纂主任という大役を引き受けてしまったのである。

陶器大辞典(宝雲舎)

作家活動も捨てたわけではないから大変だ。その上まだ発掘活動もつづける。
昭和一〇年の春のこと、妻のきぬは「夫が行方不明になってしまった」と困り果てていた。前年 の一二月に「ちょっと丹波まで発掘調査に行ってくる」と家を出たまま三カ月以上音信が全く絶え てしまった。丹波に手紙を出してみたら、「もうだいぶ前に唐津に行った」という返事がきた。唐 津に連絡してみたら、「もうこちらにはいない」とのことで行方は杏(よう)として知れなかった。しばらくして知人から、「朝鮮の鶏龍山(けいりゅうざん)で発掘をしているというハガキが届いた」という知らせがきた。
いつのまにか丹波から唐津へ行き、朝鮮にまで行ってしまっていたのである。食べるにも事欠くあ りさまの家族のことなど、唐九郎の頭の中からはきれいさっぱり消え去り、古陶磁のことのみに没 入していたのだ。
一つのことに打ち込むと、あとのすべてのことは忘れてしまう――とは言っても、これは極端な 一極集中である。この生き方、物凄い集中力と、浮気心の道草こそが、あの数々の名作を生み出す 源泉となったのではないか。
『陶器大辞典』編集にかかわってからは、社員のストライキに同情して宝雲舎を追い出されたり、 資金繰りをめぐって畏敬する小野賢一郎とも対立したこともあった。「唐九郎なら仕方ないさ」と 赦してもらえることも多かったが、持ち前の放縦な生き方が誤解を招くことも多くあったようだ。

出典:稲垣喜代志著「唐九郎風雲録」

当館の一品 :「氷柱」①

唐九郎は、1929年(昭和4年)祖母懐へ窯を移し、翌年早々自ら納得のゆく作品をいくつか焼き上げることに成功しました。その中の一つが今回「当館の一品」として取り上げている「氷柱」と命銘された作品であります。これは桃山陶の再現に成功した日本初の志野茶碗であり、昭和陶芸史に新時代を切り開いた画期的作品として今日高く評価されています。唐九郎はこの作品の出来た前後のことを『土と炎の迷路』(日本経済新聞社)のなかで、かなり詳しく語っています。今回はこの部分を2回に分けてご紹介させていただきます。 一回目は「祖母懐窯」です。

祖母懐窯

忘れもしないが、昭和五年一月二十五日、祖母懐へ移ってはじめての穴窯を焼いた。この窯で「これは」と思う志野がひょいと焼けた。
昭和四年祖母が死ぬ少し前から、窯を移すことを考え、祖母懐の地に着々と準備をすすめていた。だが、この年の十月瀬戸の市制が布かれ、十一月市制最初の市議選が行なわれたので、土地柄、その前に動くことが出来ず、選挙が済むのを待ち兼ねて、移転後すぐに窯を焼いたのである。
何度経験を重ねても、窯出しというものは、胸がおどり、足がふるえる。 窯詰めをし、火を入れ、それを焼き上げるまでは、比較的冷静に対処していく。しか し火を止めた瞬間から、まったく落着きを失ってしまうのだ。窯が冷めるまでに、四日 や五日はかかる、それを十二分に承知していながら、意味もなく窯の周囲をうろつきま わるのである。だが、その期待は、常に報いられることは少ない。
今度こそは、と思って焼いた窯から出て来た作品を、どれだけ私は割って捨てたことだろう。それだけに、これなら残して置いてもいい、という作品が、二つ三つと出て来た時は、いかにも嬉しかった。
思えば、麦袋から覚えた、只白いだけという「志野」にはじまって、私は十三の歳から志野を焼いて来た。乗越で最後に打った穴窯で、部分的には、これだな、という見当のつくものは出来るようになっていた。「やきもの」は、土と釉、そして焼き方で、色や味わいが決定される。しかし作品ともなると、それにふさわしい細工が必要になって来る。その三拍子がなかなかうまく揃ってくれない。
もう一息、もう一息と、私が作品を毀しつづけたのはそこにあった。
この前後に、私は名品と呼ぶことの出来る桃山期の志野茶わんのいくつかを見る機会を得ている。その一つに、岐阜の万松館という料亭兼旅館の主人所有の、絵志野の茶わんがあった。これは実に堂々とした風格を持った大振りの茶わんで、何度見せてもらっても、見飽きなかった。
私は、ずいぶん頻繁に岐阜へ足を運んだ。万松館の主人は、その度に気前よく喜んで茶の席を設け私にその志野茶わんを堪能するまで見せてくれた。ロクロの達者な、玄人の陶工の作に違いなかった。
更に今一つ、九鬼家から借り出して来た「峯紅葉」(現五島美術館蔵)という赤褐色の志野茶わんを見た時のことも忘れられない。 一瞬ドキッとするような茶わんを見たのは、はじめてだった。
だが、これは陶工の作ったものではない。茶人とか、趣味人とかいった人の手になるものだと私は見た。

峯紅葉

そこで、なるほど、自分たちのやっている職人的技術の熟練だけで、いい作品を生み出そうと思ってもだめだ、と痛切に感じた。素人で力のすぐれた者には、こういう作品が出来る、たとえ稚拙な部分があろうと、その人間だけが持っている「感性」の発露がなくてはならぬ。ロクロがいくらうまく引けても、それだけでは美として認識することが出来ない。自からが、自分の作品の審判者になることである。
名品に出逢えば出逢うほど、私の模索の闇は深まって行った。鑑賞眼ばかりが、先ヘ行って、自分の作品がそれに従いて来ない。言うに言われぬ焦りがあった。
折も折、祖母が死んで、それまで私への干渉は手控えていた母が、焼いたものを片っ端から毀してしまう私を見て、
「何というもったいない」 と、喧しく口を狭むようになった。
「お前が気に人らなくても、これだけの出来なら買ってくれる人はいくらでもある
よ」と言って、私が参考のために割らずに残しておいたようなものをこっそり持ち出して、伝手を頼って売ったりした。あるいは、これも一種の親心だったかもしれないが、私にとっては、母のお節介が迷惑至極だった。
「個人作家」としてやって行くためには、今下手なものを世に出せば、後々困ったことになる―と言っても、母に「個人作家」ということがどういうことなのか、理解することは出来なかった。
独立したとは言え、同じ屋敷内に暮していたのでは、こうした事態は今後も避けられないだろうと思った。私が祖母懐への移転を決意したのは、その辺の事情もあった。
結果として、これは私にいい転機を作ってくれた。祖母懐で築いた穴窯で、ようやく自分を納得させるだけの水準にたどり着いた志野がはじめて焼けたのである。
勿論、これでいいと思ったわけでは決してない。今以て私の志野は未完成のままで、まだこれから研究して行かなければならない。そのかわり、何時かまた「ひょい」と一歩でも二歩でも前へ進めるかもしれないという期待を常に持ち続けることは出来るとい うものである。
その時窯出しをした中で、焼上りのよかったものが、茶わん、鉢など五点ほどあった。

出典:加籐唐九郎著『土と炎の迷路』(日本経済新聞社)