唐九郎伝:唐九郎風雲録⑤

日記の索引

私が唐九郎さんと初めて出会ったのはその直後のことで、昭和38年(1963)の初め、私は まだ20代の若造だった。それから二十年の歳月にわたって親しい関係がつづき、彼から多くのものを学んだ。
東京で新聞の仕事をしていた私がその前年の夏、ふと、ラジオのスイッチをひねると、ちょうど ラジオ東京(発信局は、名古屋のCBC)の録音構成で”永仁事件”の特別番組をやっており、唐九郎さんが過激に弁じ立てていた。日本の文化行政のあり方、とくに文化の中央集権、無知な官僚に よる文化の支配とその弊害についての痛烈な批判を耳にして、私はびっくりした。 一陶工の発言と は到底私には思えなかった。マスコミによって”大罪人”と烙印を捺(お)され、断罪されていた渦中の 唐九郎の奇想天外な発想による発言の数々が、それまで私が耳にした、いかなる知識人の意見より も新鮮で説得力があるように思え、痛快だった。これは大変な男だ。ぜひ彼に会ってみたいと思った。そのことを文学者の杉浦明平、広末保、丸山静氏らに話したら、「あれは凄い人物だ」とのこ
と。ますます唐九郎さんに興味がわいた。
唐九郎さんを訪ねたのは、翌年、名古屋に移り住んでまもなくのことだ。敵地に単身のり込む思 いで硬直していた私を彼は心やすく迎え入れてくれ、同年代の人に対するように対等に応対して くれたのが、いま懐かしく思い出される。齢に似合わず「ぼくはね・・・」とか「あなたは・・・」 とか。言葉づかいも若々しく、ていねいであった。挨拶もそこそこに話ははずみ、熱し、昼食もご馳走になり、ついつい夜遅くまで居つづけてしまった。これが、私が唐九郎の ”虜”になるきっかけであった。

話した内容はいま詳(つまび)らかに覚えてはいないが、社会、政治、経済、歴史、思想史、美術……とジャンルも万般にわたり、読んでいる書物の幅もとてつもなく広かった。「どうしてこの人はこんな
百科事典のような頭を持っているのか」と、不思議であった。驚いたのは、「ぼくは瀬戸の近代史を学問的に解明しようと勉強してきたんじゃが、明治維新を封建社会から近代への”革命”だと位置づける講座派(いま風に言葉を変えて表現するとすれば「マルクス原理主義」か)の理論ではなかなか理屈通りにはいかんのじゃ。やはり労農派(「構造改革主義」か)の封建的なものを残しながら近代
への漸次移行という理論でないと、経済と密接にかかわりあう瀬戸の近代史は解けないんじゃよ。 机上では何とでも言えようが、実際に現実を照らし合わせながらやってみるとそうはいかない」と、学者はだしの意見が出てきたことであった。
また、昭和史のある事件について話していると、「きみの言う年月日は違っているよ」と指摘され、「いや、○○の文献にこう出ている」と抗弁したところ、「ちょっと待ってくれよ」と奥の部屋へ行き、 一冊のノートを持ってきて、「これはぼくの日記の索引じゃよ。あ、あった」とまた奥へ。今度は分厚い日記の綴じ込みを持ってきて、「ここにそのことが書いてある。この日、人と議論していて、その文献もちょっとおかしいということになり、あとでいろいろ調べたんじゃ。その結果がここに書いてある。まちがいない」と、その日記を読んで聞かせてくれた。いやはや驚いた。日記の索引までつくっている人がいるとは。あとになって気付いたことだが、このマニヤックなまでの几帳面さと、飽くなき好奇心が、あの巨大な『陶器大辞典』(B4判、全六巻、各巻平均1000頁/宝雲舎、昭和十六年〈1941〉完結)を生み出す源泉であったのだ。

陶器大辞典全6巻(宝雲舎)

帰宅しようとすると、「最近読んだ本で面白かったのは何かね」と唐九郎さんがたずねた。「明治10年(1877)の西南戦争の頃、戦乱の熊本城下で育ち、陸軍士官学校を出て世界一の軍事大国ロシアに留学、その後数奇な運命をたどった石光真清の自伝『城下の人』から始まる四部作と、荒畑寒村の自伝です」と答えると、「それを貸してもらえないか。それと『福翁自伝』を持っていないか」と言う。
唐九郎さんとの出会いの日は、私にとって衝撃的な一日となった。「あの本のおかげで三日徹夜をしてしまったよ」と笑いながら、彼はあとで感想を述べてくれた。

稲垣喜代志著「唐九郎風雲録」

唐九郎伝:唐九郎風雲録④

不死鳥

加藤唐九郎を語るとすれば、昭和三四年(一九五九)からの数年間、日本中を巻き込み話題をさ らった「永仁の壺」事件を抜きにして語ることはできない。先年催された回顧展を主催した新聞社 ですら、それを売り物にしようとしたくらいである。
鎌倉時代作と言われる「永仁二年」銘の古瀬戸灰釉瓶子(へいし)が、昭和三四年六月、国の重要文化財に 指定され、それが唐九郎作だったということがわかったため、昭和三六年(一九六一)四月に指定 が解除された。
この時のマスコミの報道は凄かった。唐九郎は贋物づくりの大悪人に仕立て上げられ、テレビや ラジオ、新聞、雑誌などで、連日のように攻撃のフラッシュにさらされた。唐九郎、六三歳のこと である。
昭和八年(一九三三)に起きた『黄瀬戸』事件といい、この事件といい、”絶体絶命”の 大事件に二度まで遭遇し、まず誰しもが彼の再起がかなうとは考えなかったと思うが、さながら 不死鳥(フェニックス)のように奇跡的に彼は甦った
昭和39年(一九五九)十月二十一日から二週間、毎日新聞社の主催で「オリンピック東京大会 記念・加藤唐九郎陶芸展」が東京・新宿の伊勢丹で催され、毎日新聞は、「大胆豪放完璧の技法
(桃山茶器)をついに再現した 陶芸の鬼(巨匠)唐九郎のすべて」と、宣伝にこれつとめた。

唐九郎作 黄瀬戸鉢

連日会場に殺到した鑑賞者たちは、二百点をこえるおびただしい数の作品群の迫力と作陶技量に 圧倒され、魅了された。古瀬戸、黄瀬戸、志野、織部、瀬戸黒、唐津、伊賀、信楽…などと、瀬
戸・美濃系の作品にとどまらず、しかも、茶碗、花生、水指、壺、長皿、大鉢、鉦鉢(どらばち)、酒器にいた るまで、向かうところ可ならざるはなし。「桃山の美の再現、伝統をこえる創造的表現」(谷川徹三)、 「そこに美の荘厳が……」(加山又造)等、ぞくぞくと賛辞が寄せられ、その成果によって昭和四〇 年(一九六五)一月一日、毎日芸術賞を受賞、唐九郎は陶芸界の第一人者としての声望をかち得た のである。

青山二郎

永仁事件直後の三六年一一月、名古屋・丸栄百貨店で開いた個展の折り、知る人ぞ知るその道の 達人(目利き)と言われ、小林秀雄、白洲正子らの古美術指南役でもあった青山二郎が東京からわ ざわざやってきて、会期中、毎日朝から夕方まで会場に坐っていた。前年の一〇月に『藝術新潮』 で唐九郎と対談した青山は唐九郎に何か惹かれるものがあり、作品に強い関心を持ったのだと思わ れる。茶碗だけの個展で、千点以上焼いた中から二十五点だけを選び並べた小品展だったが、「魯山人 の茶碗より良い」と青山はほっと胸をなで下ろした。
そして、『藝術新潮』三七年(一九六二)一月号には「永仁事件の解決の鍵は、唐九郎が今後永仁の壺以上の物を造って行くことだ。早い話が重要美術品以上の物を作ることだと前に言ったが、唐
九郎は軽くそれを実現して見せた」(「唐九郎を”鑑定”する」)と書き、そのあと、伊勢丹展実現の ために骨を折ったと言われている。

稲垣喜代志著「唐九郎風雲録」

唐九郎伝:唐九郎風雲録③

『黄瀬戸』焚書事件と『陶器大辞典』の編纂

さて、昭和八年には大変な事件が起こった。同年二月、彼の初の著作『黄瀬戸』(宝雲舎)が刊行 されるや、瀬戸の町は上を下への大騒動となった。陶祖として神社に祀られている藤四郎を「”開 祖”ではない」と否定したことと、黄瀬戸、志野、織部は瀬戸固有のやきものではなく、本歌は美 濃で焼かれたものであることを発掘調査をふまえて実証的に論述し、通説を否定したからである。

当時の瀬戸の陶工たちは、こぞって江戸時代後期の瀬戸の名工・春岱(しゅんたい)の作品を手本として作陶し、 本歌の志野や織部とは似ても似つかぬものをつくつて大手を振っていた。彼らに対して、「エタイ の知れぬシロモノが黄瀬戸、志野、織部として、今日の瀬戸地方の工人達の脳裏に先入してゐる」 と書いたからなおさらである。陶工たちをはじめ、利害のからむ人々や、「神様を否定するとは何 事か」という人々が中心となって市民をたきつけ、「加藤唐九郎膺懲(ようちょう)瀬戸市民大会」なるものが陶 祖を祀る深川神社で開かれたり、『黄瀬戸』を大量に持ち寄り、神社の社前で焚書するという 事件が起きた。当時、瀬戸で発行されていた新聞には、「陶都瀬戸の不敬漢―市民の敵。加藤唐九 郎を膺懲せよ」といった記事が次々と掲載され、市民をあおり立てた。

深川神社

祖母懐にあった唐九郎の家には連日脅迫状が舞い込んだり、石が投げ込まれたり、火をつけられ るに及んで、ついに身の危険を感じて家族を別の場所に避難させることにしたが、そのうちに本人 が暴漢に襲われ、ビールビンで頭を殴られて重傷を負い、やむなく生まれ故郷の瀬戸をあとにする こととなった。唐九郎の別の弁によると、当時は東京などに行っていて家にいることが少なく、昭 和一〇年(一九三五)に良土を求めて、名古屋市郊外の守山町翠松園に移り住んだのだとも言う。
唐九郎の浮気はまだまだつづく。『黄瀬戸』の執筆のみならず、昭和九年(一九三四)から始まっ た『陶器大辞典』の刊行にかかわり、そのうち編纂主任という大役を引き受けてしまったのである。

陶器大辞典(宝雲舎)

作家活動も捨てたわけではないから大変だ。その上まだ発掘活動もつづける。
昭和一〇年の春のこと、妻のきぬは「夫が行方不明になってしまった」と困り果てていた。前年 の一二月に「ちょっと丹波まで発掘調査に行ってくる」と家を出たまま三カ月以上音信が全く絶え てしまった。丹波に手紙を出してみたら、「もうだいぶ前に唐津に行った」という返事がきた。唐 津に連絡してみたら、「もうこちらにはいない」とのことで行方は杏(よう)として知れなかった。しばらくして知人から、「朝鮮の鶏龍山(けいりゅうざん)で発掘をしているというハガキが届いた」という知らせがきた。
いつのまにか丹波から唐津へ行き、朝鮮にまで行ってしまっていたのである。食べるにも事欠くあ りさまの家族のことなど、唐九郎の頭の中からはきれいさっぱり消え去り、古陶磁のことのみに没 入していたのだ。
一つのことに打ち込むと、あとのすべてのことは忘れてしまう――とは言っても、これは極端な 一極集中である。この生き方、物凄い集中力と、浮気心の道草こそが、あの数々の名作を生み出す 源泉となったのではないか。
『陶器大辞典』編集にかかわってからは、社員のストライキに同情して宝雲舎を追い出されたり、 資金繰りをめぐって畏敬する小野賢一郎とも対立したこともあった。「唐九郎なら仕方ないさ」と 赦してもらえることも多かったが、持ち前の放縦な生き方が誤解を招くことも多くあったようだ。

出典:稲垣喜代志著「唐九郎風雲録」

唐九郎伝:唐九郎風雲録②

「氷柱」と古窯調査


古窯跡の発掘から古陶磁の研究へと、唐九郎はどんどん奥へ奥へと進んで行った。二四歳の時の 小野賢一郎との出会いは、彼にとってある種運命的とも言える出来事であった。小野は大阪毎日新聞記者を経て東京日々新聞社会部長兼事業部長、日本放送協会文芸部長を歴任、当時は陶磁研 究家としてやきもの趣味の普及に心を砕いていた。以後、小野が主催する『茶わん』誌や中央の専 門誌紙にしばしば寄稿することになった。

唐九郎


昭和初期の経済恐慌の際には十五銀行が倒産したため、そのあおりを受けて旧華族や財閥が破産 寸前に追い込まれ、それまで蔵の奥深くにしまわれていた茶道具など名品が、ぞくぞくと各地の美 術倶楽部で売り立てに出された。人々は初めて名品を手にして、茶道というものが改めて見直され ることになった。それまでは、作家自身が本歌がいかなるものであるかを知らないでいることが多 かった。
唐九郎はこの機を逃してはならぬと、伝手を頼り、「陶磁研究家」という肩書きで、売り立てが あるたびに大阪・京都・金沢・東京の会場へと東奔西走し、名品を目のあたりに見ることができた。
これが桃山陶への開眼へとつながっていく。
各地の芸術倶楽部を巡る旅費をつくり出すのにも苦労した。知多半島の中心にある半田などに行 くと、街の骨董店に中国の明時代の赤絵の大皿が積んであったことがあり、それらをごっそり仕入 れ、東京に行く時は一、二枚ずつ持っていき売ると、いい値段で売れた。それでずいぶん助けられ たという。
「たぶん、知多半島の有力な商人たちは千石船を持っていて、中国上陸にまで渡って、あるいは どこかの島を中継地点として抜け荷買い(密貿易)をしていたのではないか。そういった陶器類に 知多の店ではよう出会うことがあった」と唐九郎が語ったことがあった。
そういえば、江戸時代、吉原遊廓の経営者はその多くが南知多の出身であったという説もある。

昭和五年、三二歳の時につくった志野茶碗が時の大茶人、日本経済の牽引者であった益田鈍翁 (一八四八 ~ 一九三八)の眼にとまり、「氷柱」という銘がつけられた。茶碗の箱の蓋裏には鈍翁の字 で「藍は藍より出でて尚青く氷柱ハ水より出でて尚冷し 鈍翁誌」と記されている。いまこの茶碗 は、翠松園陶芸記念館の収蔵作品の目玉の一つだ。昭和六年には「黄瀬戸魚文花瓶」で帝展に初入 選し、彼の前途は洋々たるもののように思われた。

氷柱

ここまでの腕に達しながら作陶一本にしぼれず、唐九郎は懲りることなく古陶の研究から離れら れなかった。この時代、彼は陶磁史研究の上で重要な意味を持つ二つの大発掘を手がけた。のちに 「本山コレクション」と称される大阪毎日新聞・本山彦一社長の美濃・瀬戸古窯跡大発掘と、唐九 郎自身の発意で行った黄瀬戸を焼いた美濃の「窯下窯」の発掘である。昭和六年一月、美濃の古窯 跡を視察してきた論説委員の井上吉次郎が彼に助力を求め、唐九郎が正木社長への説得役となり、 発掘の中心的役割を担うことになってしまった。美濃は大萱、大平、久尻、笠原、郷ノ木、大川。 瀬戸は古瀬戸から赤津方面の古窯を発掘し、椿窯からはいいものが見つかった。途中からは加藤 土師萌(のちの東京藝大教授、人間国宝)も発掘調査に参加した。
翌七年(一九三二)には大萱の窯下窯の発掘にかかり、九月から三カ月間を費やしたが、この窯 では志野、黄瀬戸、瀬戸黒、あめ黒、柿釉等が焼かれたことが判明した。その中には以前から近く の小川で陶片を拾い、唐九郎が目をつけていた、茶人の言う本格黄瀬戸が含まれており、鉢類が多 く、向付、皿、香合、ぐい呑み、壺類等が出土した。梅、若草、あやめ、露草、蕪、大根、菊花、 秋草等が線彫りで軽快に描かれていた。


唐九郎編の『原色陶器大辞典』(淡交社、一九七二年)でも「窯下窯」の項で、「最もすぐれた黄瀬 戸を出し、有名なあやめ手のドラ鉢や宝珠香合などの黄瀬戸の名器は、すべてここでつくられたと いってよい。文禄二年(一五九三)銘の黄瀬戸の破片が出土して志野や黄瀬戸の年代を決定する貴 重な資料となったことは有名だ」と、記されている。
発掘の度ごとに新発見があり、過去の通説はことごとく覆されていった。

出典:稲垣喜代志著「唐九郎風録」

唐九郎伝:「唐九郎風雲録」①

風媒社創業者、故稲垣喜代志氏による唐九郎伝「唐九郎風雲録」の連載を始めます。

今回のタイトルは、「資本論、同人誌、オーケストラ」です。

資本論、同人誌、オーケストラ

唐九郎は明治三〇年(一八九七、戸籍上は明治三一年)、瀬戸市水野町の半陶半農の家に生まれ、四 三年(一九一〇)、瀬戸市立第一小学校を卒業。その後、南画と漢籍を習いに中根聞天塾に通い、め きめき腕を上げて師範代として後輩たちを指導した。この塾での勉強がのちに中国の辞書や古文書 などを読んだり、陶磁器関係の資料の解読、『陶器大辞典』の編纂の折りに大いに役立った。この 塾に通っていた頃から彼は通信講座で数学や簿記や英語を学んだ。高等工業や美術学校に学んだ、 河井寛次郎、濱田庄司、富本憲吉とは環境は全く違い、すべて独学であったと言っていい。
幼児の頃から窯場に入り込んで遊んでいた唐九郎は、土いじりは馴れたもので、小学校を出る頃 にはろくろも見事にひけて、 一人前の仕事ができるようになっていた。家の周辺には古い窯跡がたくさんあり、子どもの頃から陶片を集めては宝物のように眺めたりして育った。その古陶の持つ魅 力がやがて彼を古陶磁研究へと向かわせ、古窯発掘・調査、古陶復元へと駆り立てることになる。
唐九郎は早咲きだった。大正三年(一九一四)七月、 一六歳の時に父の丸窯の権利を譲り受けて 独立した。当時、瀬戸は陶都として栄え、不景気知らずだった。しかし、「名人職人に!」と願う 祖母の期待を一心に担った彼は無難な駄物には手を染めず、新しいものにこだわったり、名人気質 があだとなり、見事、経営に失敗、大正五年(一九一六)には倒産というはめになった。その後、 実業家をも志したが、うまくはいかなかった。
青年期の人間形成に大きな影響を与えたのが、宣教師・井上藤蔵(瀬戸町永泉教会)と柿沼広澄 (日蓮正宗瀬戸説教所)の二人である。大正六年(一九一七)に出会った井上は安部磯雄系のキリスト 教社会主義者で、彼からは自由平等思想を学び、街頭で伝道活動に携わったこともあった。昭和六 年(一九二一)に会った柿沼広澄はまだ学僧で唐九郎より年下であったが、親しくつき合ううちに、 『資本論解説』などをすすめられ、唯物史観的思考が身につき、のちに陶磁史研究上役に立ったと いう。幾星霜を経て、昭和三八年(一九六三)五月に大石寺総監となった柿沼からの依頼で、同寺 大客殿正面の大陶壁(縦三メートル×横一二メートル)を加山又造と共同で制作した。
多感な青年時代には彼もひとかどの文学青年であった。夏目漱石、森鴎外、田山花袋、徳富蘆花 やトルストイ、ツルゲーネフなど、内外の小説を読んだり、友人たちと同人誌『靫』』を発行し、 「霞」というペンネームで小説や詩や俳句や短歌も発表したりした。

日一日を君のみすがたゑがきつゝ慕へる我を君知りますや
あへなくばさびしとぞ思ふ吾が心あふてその後のなほも寂しき
栃の葉の散ることほひは何となく君をにくめる心湧きくる
春の夜を髪に木の葉のピン挿してかはゆき君は我とあゆめり

唐九郎、大正一二、三年(一九二三、四)頃の作品である。
愛知県にピアノが二台しかなかった頃で、そのうちの一台が瀬戸にあった。瀬戸は豊橋、岡崎、 一宮などとともに瀬戸物景気で栄えていたのだ。彼は仲間と相談、オーケストラをつくり、自分は ヴァイオリンを弾いた。「あんな西洋のもんにかぶれよって」という批判があると、さっそく琴の 師匠の所に相談に行き、琴や尺八との和洋合奏の会を結成、幾度か演奏会を開き瀬戸の人々をあっ と驚かせた。それだけではない。唐九郎は尺八や端唄や三味線、踊りも習い、舞台で踊ることさえ あった。

続く

出典:稲垣喜代志著「唐九郎風録 」