「やきもの一問一答」:第三回 「土のこと」①

◎やきものについて一焼き、二土(つち)三細工といわれるようですが…。

陶器ばかりはまったく土と焼き方じゃ。結局は焼きが一 番難しいし微妙なんだ。やきものを窯焼きというくらいだ からね。窯の焼き方が上手なら陶工として秀れておるけれ ども、いかなる条件がそろっていても窯の焼き方が下手だ ったら物にならない。それから、素地が悪いと焼き方が上 手であっても良い調子にならないから土が大事なんじゃね。 で細工は、勉強すれば誰でもできる。焼き方と土の選定に は半ば天性的なものがあるからね。

◎やきものにいい土とはどういう土ですか?

それは、″磁器″のところでもいったカオリン性の高い土 なんじゃ。結局、やきものの原料になっているのは御影石 で、この御影石は、火山によってできたものではなく、地 球誕生当時からあった岩石がそのまま水に漬かって固まっ たものといわれている。学者のいうことだからあてにはな らんが……、本当の天然産の石であるという。この御影石 は長石と珪石と雲母の三つから成っている。この長石の結 晶体が風化分解したものがカオリンなんだ。つまり、空気 や水や光線におかされて細かな土になったのがカオリン。 これが陶土に欠かせないものなんじゃ。

◎カオリン性の高い、いい土をどうして見分けるのですか?

それは巾着切りが人の懐にいくらあるかわかるような もので、勘としかいいようがない。木の生え方、水の流れ、 山の形、どれも一様ではないけれども、パッとわかるんだ。 走る汽車の中からでもわかるし、映画をみていてもわかる んだよ。たとえば飛行機に乗っていて、下を見てても、あ あ、あそこにいい土があるとわかる。僕はシベリアからモ スクワ、モンゴルヘとやってくる時に、何ヵ所降りてみた かったかしれん。カオリンのいい層がず―っとみえている んだね。

◎日本の中で特にいい陶土がとれるのはどこですか?

アップライト地帯といって、御影石がやや風化して柔か くなっているものが山になっているところにはたくさんあ る。特に愛知県と岐阜県との境一帯はアップライト地帯な んだ。つまり瀬戸から美濃、三河へかけての一帯じゃ。そ うした山々に雨が降って水が流れ、長石が風化したものが ずるずると流れてきて溜ったのが陶土になる。この陶土に は爽雑物も入っておるが、主要成分はカオリンだ。 第二に伊賀、信楽。ここもアップライト地帯。

猿投山

◎風景としてみて、アップライト地帯の特徴はありますか?

峰が尖っていてね、谷ができている。まあ矩形(くけい)の谷のあ
るところなら必ずやきものに良い土がある。そして下に陶 土があるところでは上に伸びる樹は生えないんじゃ。とい うのは、樹木というものは、親根が下にずっと通らなくて は上に伸びてこない。ところが下に粘土があると、根が横 に這ってしまう。だから樹をみただけでもわかる。果樹園 をやっておるところはたいてい下に陶土があるね。


◎唐津ものの土は何ですか?

やはり主要成分はカオリンだね。ただ九州地方は鉄分が 非常に多い。カオリンは鉄を吸収するが、鉄分が少ないほ ど優良な粘土といわれている。陶片をみると素地が黒いの は鉄分が入っているからだ。


◎瀬戸と伊賀や信楽の土との違いは何ですか?

日本の陶土は、カオリンがたくさんまじっているものの、 他の粘土も入っている。それに結晶体の大きなものもあれば 粘土になったものもある。それが焼いた場合の違いになって くるね。瀬戸や美濃地方のものは粘力をもった陶土なんだ。 蛙眼(がいろめ)と木節土(きぶしつち)がこの辺の独特の 土なんじゃ。

◎ 蛙眼 と木節土について教えて下さい。

蛙目というのは、瀬戸では蛙のことをガイロと呼ぶんだ ね。水に浸すと珪石がでてきて、ちょうど蛙の目のように 光る、そんな土を蛙目と呼ぶ。これを水でこすといい粘土 がとれる。
木節土は、これがあることによって日本の土が世界で最 良とされるほどいい土なんだ。この木節もカオリシなんだ けど色は黒い。木が腐蝕して入っているからなんだ。考え てみると濃尾平野も三河平野ももとは森林地帯であったに 違いない。それが木曽川の長い間の作業で埋まって平野に なったんじゃろう。こうして埋まったなかでも瀬戸から美 濃にかけて、御影石の風化層の中に埋まってカオリン性の 高いものが木の中に吸収されたものが木節土なんだ。木 の 中にカオリンが吸収されて粘土化しているんで木の痕跡が あっても木ではない。焼けば木は燃えちゃう。焼けばカオ リンになるんだから。 木節土も蛙目も瀬戸弁で、これが世界共通の学術語にな っているんだよ。本質的にはこの二つは同じ物だけど、粘 力が違う。たぶん木の中にある粘力性の違いだろう。木の 養分が糊のような粘力になって木節のほうに残っているん だね。で、よく練った木節の土だと、自分の背の高さくら いまで伸びる。こういう扱いやすい作りやすい土があるか ら、瀬戸でいくらでも安いやきものができるんだ。

続く

出典:唐九郎著『唐九郎のやきもの教室』(新潮社)

「やきもの一問一答」:第二回 「磁器のこと」

◎磁器は石を焼いたものとのことですが、もう少し詳しく 教えて下さい。

石を粉砕して粉末にして、それを形づくって焼いたもの が磁器。石といっても長石類なんだが、中国ではカオリン を使っており、日本では天草石を使っている。

◎カオリンとは何ですか?

中国の景徳鎮のそばに高嶺(カオリン)山という山があって、ここは 長石の結晶体からできたいい陶土ばかりの山なので、土そ のものを世界的にカオリンと呼ぶようになった。純粋なカ オリンはまっ白なんだ。ところがカオリンは鉄が好きで、 遠くにある鉄分でも吸収してしまう。だから、中国の高嶺 山のように一山すべて鉄分がなくてカオリンだけでまっ白 という山は他にはないね。

景徳鎮

◎天草石とはどういうものですか?

九州の天草島あたりでとれるので天草石と呼ぶ。カオリ ンは風化度が進んでいるので、土粘土みたいだが、天草石 はまだ堅くて、石のかっこうをしている。これを粉砕して 使う。九州はこの天草石のおかげで、磁器を作って長い問 もうけてきた。九州で磁器が発達したのは、台湾経由で渡 ってきた中国の職人が教えたのと、天草石があったからだ。 九州は、陶器は朝鮮から、磁器は中国から教わったんだ。 伊万里焼というが、あれはあの地方の磁器を伊万里港か ら出荷したからそういう名がついたんだ。

天草諸島

◎磁器のことを別名チャイナ・ウエアというのはなぜです か?

磁器が最も早くから発達したのは中国だからね。特に高 嶺山のある景徳鎮が主体となっている。磁器は、中央アジ アから西では全然焼いていなくて、ヨーロッパには、シル ク・ロードを通って伝わった。シルク・ロードは、磁器の 道でもあるんだよ。ヨーロッパ人にとっては中国の磁器が 不思議でしょうがなかった。ヨーロッパの古い辞書をひく と変なことが書いてある。「磁器とは、貝殻を割って卵の白 身でかため、三百年くらい地中に埋めておくとできるもの だ」というんだ。

柿右衛門

磁器の製法を知ったのはずい分後のことで、インドを通 じて東アジアとの貿易が開けてからだろう。日本は景徳鎮 から流れてきた職人を使って短い内に磁器を知ったが、ヨ ーロッパでは製陶所に行くと必ずといってよいほど柿右衛門 が飾ってあって、そしてうちの製陶所は柿右衛門を研究して百五十年になると……。今ようやくここまできたが、 もう百五十年もすれば立派に柿右衛間がやれるようになる とそういうんだ。それだけ磁器を、ヨーロッパではやかま しくいっておる。ドイツあたりでは磁器のカケラを拾うと 幸福がやってくるなどといって、何故か魔的な力が磁器に あるように思っているらしい。

出典:唐九郎著『唐九郎のやきもの教室』(新潮社)

次回は「土のこと」 お楽しみに

「やきもの一問一答」:第一回「やきもの」とは何か

◎やきものと一口にいってもいろいろありますけど、どう分類できるのでしょうか?

″やきもの″といっとるのは、土または石を焼いて固めたものである。大ざっぱにいえば、土を焼いて固めたものを 陶器といい、石を焼いて固めたものを磁器といっている。陶器はたたくと木琴のような音がする。磁器は金属性の 音がする。陶器は火に入れたあといかなる場合にも不透明だが、磁器は半透明体―ガラスのような透明ではないが ―で、明るいほうを向いて自分の手を向こうへやれば、その手が透けてみえる。

◎備前とか信楽、常滑などは何になりますか?

広義にいえば、磁器以外のものをすべて陶器といっておる。狭義では陶器とは吸水性のある素地に釉薬をほどこし て強く焼くやきものをいい、吸水性のある素地のまま無釉にて低火度で焼いたものを土器といい、不吸水性の素地の ものを釉薬をかけずに陶器と同じ程度まで強く焼いたものを炻(せつ)器という。
間違えてはいけないのは、中国では陶器といえばやきもの全体をさしている。 つまり中国語でいうと陶とは窯のこ とで、陶器とは窯で焼いた器という意味なんだよ。その中で釉をかけたものを ″ 瓷(じ)器″と呼んでいる。

◎陶器のことを通称して瀬戸ものというのはなぜですか?

″せと″というのは、″すえ(須恵)ところ(所)″が″すえと″になって″せと″になったんだと思う。須恵という のはやきもののことじゃ。瀬戸という地名はむしろあとからできたもので、それがいつの間にかやきものの本場とい
うことになってしまった。それから唐津でもやきものが始まって、陶器をさして東の方では瀬戸もの、西の方では唐 津ものというようになった。この瀬戸ものと唐津ものとが、日本の陶器の主体じゃ。

◎瀬戸ものと唐津ものの違いはどこですか?

瀬戸ものはそもそも中国の焼き方が基礎となっておる。奈良朝から始まり、平安朝などさかんにやっておる。手っ とり早くいえば朝廷の御用窯だった室町初期にはもう瀬戸ものという名称がある。
唐津ものは元々が朝鮮のやきもので、室町中期に朝鮮から九州へ渡り、その後、秀吉が朝鮮戦争の捕虜を連れてき てやったものが基礎を成している。

◎具体的に瀬戸ものと唐津ものの違いは?

やり方が違う。朝鮮系の唐津は蹴轆轤(けろくろ)を使い、瀬戸の場合は手轆轤 なんだ。足で蹴って回す轆轤 は速く回らないか ら、唐津ものは不完全でごてごてしていてそこがまた面白い。瀬戸は手で回すから、几帳面なものができるね。
それに窯も違う。唐津ものは朝鮮式の登窯であり、瀬戸ものは大窯(古い窯の意)と称する窖(あな)窯である。

◎ 中国から陶工が来たのですか?

当時はテレビがあるわけじゃなし、手紙が往復できるわけじゃなし、人間が来なければ文化も来ない。おそらく中 国から人間が来とると思う。僕が中国へ行ったとき、こわれた古い建物などをみると、大工と左官は日本から行っと るからね。特に河南地方では棟札に日本人大工の名が書いてあったりする。パスポートがいるわけじゃなし、戸籍謄 本がいるわけじゃなし、行きたい時に行けたし、むこうもそうなんだよ。昔の文化交流というのは人間の交流なんだ。

◎中国のやきものの技術がうかがわれる最も古い例は?

愛知県は三河と尾張の境に猿投山という山岳地帯がある。ここに猿投山西南麓古窯と名づけたたくさんの窯址があっ て、僕も発掘にたずさわった。なんと猿投の古いものは奈良朝につながるからね。猿投で焼いたものは中国の越州窯 のものと寸法も文様も形もそっくり同じ。越州窯とは上海よりも南の、 つまり越の国で焼いたものであるけれども、 ちょうど五十年遅れで人間によって日本へ伝えられたとしか考えられないね。

◎六古窯とは何ですか?

まあ、かつては瀬戸をはじめ、常滑、備前、丹波、信楽、越前の古窯址をさして六古窯といっておった。鎌倉、室町期の古い窯があるところではあるけれども、六古窯をやかましくいっているうちにそれよりも古い窯址がどんどんで てきた。

◎日本の代表的古窯を選ぶとしたらどこですか?

それは陶邑(すえむら)古窯、猿投古窯と渥美古窯を入れなくてはいけない。河内・和泉にまたがる陶邑古窯址群は、成立年代 が我が国で最も古く、奈良朝以前の最大の古窯だ。その名称は『日本書紀』の「茅渟県の陶邑」(ちぬのあがたのすえのむら) の地名に基づいている。渥美半島から出てきた渥美古窯は瀬戸よりも古く平安朝に始まる。それも平安朝に黄瀬戸をやっておるんですか ら驚いてしまう。それはすばらしい黄瀬戸で、瀬戸のものとしては立場がないがしょうがないわ。
それから先ほどの猿投古窯はもう一つ古いが、平安朝の末期には滅びてしまう。朝廷の御用窯だったもので、朝廷 が勢いを失ったときにだめになった。この猿投の系統で民窯として南に伝わったのが常滑になり、北にきたのが瀬戸 になる。鎌倉時代以後のことだ。

◎発掘したもののどこで古いとわかるのですか?

例えば渥美古窯からでた大きな壺、それは骨を入れたものだが、そこに平安朝の年代と人間の名が入っている。それで同じようなものかどうかで見当がつくんだよ。陶器に年号がなくても一緒にでてきた土器などの年号からしぼっていくことも可能だ。

◎各古窯の違いは何ですか? 技術ですか、形ですか?

時代が同じならたいてい同じだね。職人は昔になるほど 渡り職人で、同じ人間が行き来しとる。寒い時には暖かい ほうへ行くし、暑ければ涼しい所へと、渡り鳥のように、 越前に行っとる奴が常滑や岡山でやっとるわね。

◎では何が違うのですか?

土が違う。土の重さが違う。越前のものは重い。だから 同じ職人が作ってもドンと太いものになり、土が軽ければ 薄くできるもんで別人が作ったようにみえる。
場所が違うということは、土が違うだけなんだ。時代が 同じだと、九州と瀬戸とこれだけ所が離れていても、同じ ようなものを焼いているからね。

◎これが日本のやきものといえるものができたのはいつご ろからですか?

日本のやきものは、桃山時代に非常に発展した。つまり お茶、茶道との関係が強い。平安から鎌倉にかけて、喫茶 が流行し、そしてまた鎌倉時代には禅宗僧侶の茶礼という 儀式が行われたけれども、そこでの茶碗は天目茶碗など唐 物が珍重されていた。珍重はされていたが、この場合は美 よりも用が先行していた。その後、千利休によって、茶は 茶道になった。利休の茶は、あれは修道の為の茶道なので、 精神的なものを尊ぶ。そうした侘び、寂びの境地にかなう ものとして渋みのある高麗茶碗などを喜んでいた。
ところが桃山に入って茶道は一変する。古田織部が登場する。織部は利休の「侘び茶」を受けつぎなからも、眼の 茶人であった。非常に芸術的になるんじゃ。利体は色や形 の変化のあるもの、絵のあるものを好まなかった。織部は その反対じゃ。派手やかになって近代的になった。織部に
なって初めて、日本的陶器が生れてきたんだ。
一つはそのころ、南蛮文化が入ってきたことも影響して いる。日本人はああいうものに敏感なんだ。渡来のガラス 器を真似たり、釉薬に酸化銅など色ガラスに使うのと同じ ものを使っている。織部の緑だよ。いつかフランスでスラ イドをみせていたら、「これは何というやきものか」と聞く から「織部だよ」といったら、「いやオリーヴだろう」といっ た。もしかするとオリーヴだから「オリベ」と名乗ったの かもしれん。

◎各地の窯に個性がでてくるのもこのころですか?

いや、そう簡単にいかない。徳川幕府が幕藩体制をしく と、文化的なものが一時期全くだめになる。だめになった ところで、八代将軍吉宗の享保の政策で、各大名に藩の産 物を作らせた。その時、各藩が窯をうって競争した。それがお国焼なんだ。大正のはじめにはほとんどすたれてしま ったが。というのは、第一次大戦の頃、大資本が名古屋を中心とする愛知・岐阜・三重の一帯で急速な機械化を進めて大量生産を始めたので、ほかの窯はたちうちできなくなってしまったんだ。もともとここら一帯は原料も豊富だか らね。

出典: 唐九郎著『唐九郎のやきもの教室』(新潮社)

次回は「磁器の こと」。お楽しみに。